017:秘密

 
「世界の果てか…確かにそうだな」  学院の敷地をぐるりと取り囲む堅牢な防壁を遠目に眺めやって、シュレーが面白そうに言った。  外はすでにすっかり夜もふけていて、満月が中天にかかっている。学寮を少し離れただけで、道の両脇を針葉樹の森が埋める、鬱蒼とした場所に出た。土地勘があるわけでもないだろうが、イルスは他の者を引き連れて、迷うこともなく学院の敷地の端までずんずん進んでいった。時折、道を外れて森の中を歩かされたが、いつのまにかまた、土を踏み固めただけの粗末な遊歩道に戻ることができるあたり、彼には天性の方向感覚が備わっているらしかった。  一度、学寮のテラスから外を眺めただけのはずなのに、確信に満ちた足どりで進むイルスを見て、スィグルは彼を見直した。さすがは六分儀ひとつで海原を渡る部族の者だ。学寮の中を連れ回してからかった時には、右も左も解らない様子だったが、外に出て星々の位置を確かめられさえすれば、たどるべき道を自然と知ることができるのだろう。  彼奴(きゃつ)らは水の上をゆく隊商(キャラバン)でございますよと、子供の頃に教えをうけた老師が説明してくれたのを、スィグルは思い出した。海エルフと黒エルフは、昔から交易ルートを通じて繋がっている。海の者たちは、黒エルフの事を「砂の海を航海する者たち」だと言っているそうだ。どちらも考える事は同じようなもので、自分たちを基準に相手を理解しようとする。それでも、理解し合えるだけマシというものだった。  進む先の方向を確かめるとき、イルスが無意識に夜空をちらりと見やって、ひときわ明るい星の位置を確認するのが、スィグルには懐かしく思えた。その青白い星のことを、黒エルフでは「母なる星(パスハ)」と呼んでいる。道しるべのない砂漠を旅する時、隊商(キャラバン)は、この星の位置をたよりに砂牛の手綱を引くのだ。おそらく、イルスたち海エルフも、この星を道しるべにして、寄る辺なき海原を渡るのだろう。  「どうして、時々空を見るんですか?」  だしぬけに、シェルがそう言ったので、スィグルはぎょっとした。自分に話しかけられたのかと誤解したが、シェルはどうやら、イルスに話しかけたようだった。前を歩いていく二人の後ろ姿を、スィグルは憮然と眺めた。 「ああ…星を見てるんだ」  ぼんやりと答えるイルスは、いかにも当たり前だと思ってることを尋ねられたと感じている様子だった。 「珍しい星でも見えるんですか?」  不思議そうにシェルが言うと、イルスが笑う声が聞こえた。 「違うよ。星の位置を見てる。あの青白い星は、ずっと真北にあって動かないから、その星と他の星の位置を比べると、自分がいまどっちの方向に進んでるかが解る」 「六分儀もなしで、そんなこと解るんですか?」  シェルが興味深そうに声を高くする。そんなこと、生まれたときから星を眺めていれば、自然と解るようになるだろうと思って、スィグルは苛立った。 「慣れれば大体の方角くらいは解るさ。海エルフは子供のころから仕込まれるからな」  イルスは特別面倒くさがる気配もなく、シェルに説明してやっている。 「フォルデス、君も船に乗るのかい」  スィグルの後ろを歩いていたシュレーが言った。イルスが荷物を抱え直しがら振り返り、そのまま後ろ向きに歩き始める。 「航海術の基礎はやった。近頃は海戦も珍しいから、大して仕込まれちゃいないけどな。でも、船はいいぞ。海には果てがないからな」  嬉しそうに答えるイルスは、いかにも純粋そうに見えた。  大陸の南端に済む彼らは、水平線の向こうにある別の大陸まで、船を駆ることも珍しくない。神聖一族の支配するこの大陸から、無法の隣大陸へ船で物資を運び、行く先々の物産を仕入れて戻ってくる。白い卵も黒い卵も関係のない世界のことを、彼らは知っているのだ。だから自由になれる。神殿の者たちがしたり顔で垂れる教えも、海を越えてしまえば他人事だ。  「羨ましいよ。君たち海エルフは自由だな」  スィグルの心を見透かしたようなことを、シュレーは言った。それを聞いたイルスが、にやっと笑う。そして、不意にスィグルに心配そうな目を向けた。  「お前、まだ気分が悪いのか?」 「…べつに、そういう訳じゃないよ。森が嫌いなだけさ」  憮然とした声で、スィグルは答えた。自分の声が思ったよりも子供っぽくすねていたので、スィグルは驚いた。イルスが苦笑するのが、月明かりの中にもはっきり見える。 「お前達も、あの星を使うんだろう。なんて呼んでるんだ」  イルスが無理に話しかけてくれているのが、良く解った。スィグルはため息をついた。 「『母なる星(パスハ)』だよ」  観念して、スィグルは答えた。今度は、いくらかましな口調だった。 「俺たちは『竜の眼(アズガン・ルー)』って呼んでる。昔話に出てくる、片目の海竜の名前がアズガン。あれはそれの眼なんだってさ」  イルスはまた夜空を見上げた。遠目のものが見えにくいのか、イルスは眉根を寄せ、目を細めている。普段から、イルスが時々こういった表情を見せることに、スィグルは気付いた。どうやら彼は目が悪いらしい。そういえば、海エルフは皆、近視なのだという話を聞いたことがある。生まれつき目が悪いなどと、不運な部族もあったものだ。暗闇の中でも目が利き、遠くのものまでよく見通す黒エルフの瞳とは、ずいぶん出来が違っている。彼らも、自分たち黒エルフも、元をただせば同じひとつのエルフ氏族だったというのだが、スィグルは納得がいかなかった。自分と白系種族が違う程度には、自分とイルスも違っているような気がする。源流は同じなどといったところで、結局、エルフ諸族はすでにもう、全く別の民族なのだろうと、スィグルは思った。  「シュレー、竜(ドラグーン)って本当にいるのか?」  突然、ぽつりと尋ねたイルスに、スィグルはギョッとした。上の空だったようだ。 「どうしてそんなことを?」  シュレーが不思議そうに答えた。 「子供の頃、俺に名前をくれた神殿の神官が、竜(ドラグーン)は本当にいるって言っているのを聞いたんだ。神聖神殿の大神官は竜と血を分けた兄弟で、お前達、神殿の一族はみんな、竜(ドラグーン)の末裔なんだってな。俺の名前は、母上がつけたらしいんだけど、海エルフの言葉で『青い竜』っていう意味なんだ。そんな名前をつけるなんて、神殿に対する不敬だって、よく小言を言われたよ」  大して気にしていない様子で言い、イルスは楽しそうに笑った。 「神殿の者は皆、自分たちが竜(ドラグーン)の末裔だという話を信じている。神殿に伝わる教えによると、大神官は人の姿をした竜(ドラグーン)だ。この世の始まりから転生を繰り返して生き続けていて、全ての部族を生み出した実の父として、世界に君臨している」  どこまで本気なのか推し量れない口調で、シュレーが淡々と説明した。それが本当なんだったら、こいつも竜(ドラグーン)の末裔というわけかと思って、スィグルはフンと鼻で笑った。竜(ドラグーン)は地上で最も古い種族だと言い伝えられる怪物で、時には大きなトカゲのような姿で描かれ、別の時には、巨大な地虫のようだと言い伝えられる。彼らは定まった姿を持たない。その時々の話の都合で、どんな姿にもなれるのだ。結局は、誰も見たことがない、おとぎ話の中の生き物でしかない。少なくとも、スィグルはそう信じていた。 「本物の竜(ドラグーン)を見たことはないが、かなり獰猛で巨大な生き物だという伝説だよ。それと神殿の一族の血が繋がっているなんて考えにくいが、その勇猛さをある種の象徴として借りているのではないかな」  微かに笑っているシュレーの声には、竜(ドラグーン)の末裔を語る一族に対する侮蔑の気配があるように聞こえた。だが、きっとそれは気のせいだろう。スィグルは自分の直感を無理に否定した。全ての部族から畏れ敬われる神殿の一族の者が、自分の血族を蔑む必要などあるわけがない。 「でも、神殿の紋章は白い鳥の翼ですよね。どうして竜の翼じゃないんだろう」  素朴な疑問を、シェルが口にした。そういえばそうだと思って、スィグルは無意識に後ろにいるシュレーの方を振り返ってしまった。目が合うと、シュレーは意地悪くニヤリと笑った。しまったとスィグルは後悔した。 「…さあ、どうしてかな。竜(ドラグーン)は鳥の姿をしているのかもしれないな」  答えを知っている風に、シュレーは言葉を濁した。 「知りたいかい、レイラスも」  シュレーはいかにも悪気のないように見える顔をしているが、スィグルはそれを信用する気にはなれなかった。人が知りたがっているのに気付いた上で、からかっているのだ。スィグルは、人をからかうのは好きだったが、その逆は嫌いだった。まして相手が神殿の者ときたら、なおのこと腹が立つ。 「興味ないね。そんなこと知ったところで、何かの役に立つのかい」  刺々しい口調で答え、スィグルは前に向き直った。すると、見た目にもがっかりしているのが分かるような顔で、こっちを見ているイルスと目が合った。 「なんだよ、イルス」 「スィグル、お前、おかしいぞ。何を一人でイライラしてんだよ」 「僕が不機嫌な理由なんて、考えなくても分かるだろ?」  腹が立って、スィグルは噛み付くような答え方をしてしまった。シェルがビクビクしているのが分かる。 「説明しないと理解してもらえないみたいだよ、レイラス。理由があるんだろう」  何かを促すように、シュレーが言い添える。面白がっている様子だった。振り向いて、スィグルはじろりとシュレーを睨み付けた。しかし、それでも、神聖な血を引く少年は、にこにこと機嫌良く笑っているだけだ。 「余計なお世話はやめてくれ。あんたがそうやってお節介だから、いろいろと問題が起こるんだ。わかっててやってるんだろ。善人面して人の腹を探るのは感心しないね」 「君だって、わざと人を怒らせたりするだろう。同じだよ」  嫌味たっぷりの声色で、シュレーは応戦してきた。スィグルは自分の形勢が明らかに不利なのを感じとった。こんなことは初めてだ。言いよどんで何も言い返せないなんて。  スィグルが言葉を選びかねて動揺しているのを見てとると、シュレーはいかにも勝ち誇ったふうに、にやっと笑った。  「…そういえば、君の氏族の姓、マルドゥークというのも、竜(ドラグーン)の名前だな」  ごく自然な流れで、シュレーが話を継いだ。スィグルは屈辱的な気分だった。シュレーは、スィグルが困っているのを知って、わざと話をそらせたのだ。スィグルは歯がみして、うつむいた。情けない。まだら蛇に狙われた時の砂牛の仔だって、もっとマシに振る舞っただろうと思って、スィグルは耐えられない気持ちだった。  「それから、フォルデスというのは、詩編で予言された竜の心を知る者の名だ。君の名前には竜(ドラグーン)がたくさんいるらしいな」  不意に、ごく近くでシュレーの声を聞いて、スィグルは自分が無意識に立ち止まっていたことに気付いた。通りすがるシュレーが、無表情な目で、じっとスィグルの顔をのぞき込み、歩き出すのを促すように、スィグルの肩を押した。  「詮索されたくなければ、顔に出すな」  スィグルにしか聞こえないような微かな声で、シュレーが忠告した。軽い驚きのため、スィグルは目を見張った。 「……うるさい」  なぜか、スィグルも声をひそめていた。前を歩いていく二人は、このやり取りに気付いていない様子だった。 「竜(マルドゥーク)の末裔にして、竜(ドラグーン)の心を知る者、青き竜……いい名前ですね」  シェルが嬉しそうにころころと笑っている。スィグルは自分の額に気味の悪い汗が浮くのを感じた。額冠(ティアラ)がゆるむような感触がする。  「君がそうやって恨みをまき散らすのは、それを誰かに憐れんでもらいたいからさ。話せば楽になるよ、レイラス。自分の腹に収められないなら、そうするしかないだろう」  並んで歩きながら、シュレーが静かに言った。 「あんたに何がわかるんだ」  うつむいたまま、スィグルは弱々しく応えた。 「わかるよ。人を呪いながら生きることの意味がね」 「あんたも誰か恨んだりするっていうのかい」  無理に顔を上げ、笑おうとして、スィグルは失敗した。その代わりに、シュレーが薄笑いを浮かべた。 「私はいずれ世界を滅ぼすんだ。よかったら君も手伝わないか、レイラス」 「………どうやって?」  シュレーの穏やかそうな緑の目の中に、何か凍ったものが潜んでいる気がして、スィグルは憎たらしい白系種族の瞳から目が離せなくなった。シュレーが微笑して、かすかに唇を開いた。整った白い歯列が見える。 「正神殿の地下には、世界を滅ぼすための魔法が封印されている。それを使えるのは大神官だけだ」  密かな声で、シュレーは話し始めた。すぐ前を歩いている二人が、なぜシュレーの話に興味を示さないのか、スィグルは信じられない思いがした。  神官たちは、自分たちの生まれ故郷である聖楼城のことを、決して話そうとしない。大陸全土に点在する神聖神殿の頂点にたつ正神殿についての話題は、神官たちの最大の秘密であり、それについて質問するのはタブーだと考えられていた。神籍を持たない者が、聖楼城の秘密を目にすると、目が潰れると信じている者たちさえいる。スィグルは、そこまで神聖神殿を崇拝する気持ちなど持ち合わせなかったが、それでも、シュレーが話そうとしている事に、漠然とした恐怖感を感じずにはいられなかった。  何か尋ねようとして、スィグルは口を開いたが、なかなか言葉が出てこなかった。シュレーは薄く笑いながら、自分の唇に人差し指を添えて、口を利くなというような仕草をした。 「聖楼城の秘密を知っているのは、神殿の血族と、それぞれの部族を統治する部族長だけだよ。即位する時、部族長はかならず聖楼城に呼び出される。大神官はその時、部族長になる者に自分の秘密を見せる。その後、魔法をかけて秘密を忘れさせる。それでも、族長達は心の底では聖楼城で見せられたものを憶えていて、決して神聖神殿には逆らわなくなる。たとえ、それを自覚できなくても、彼らは神殿の頚城に繋がれているんだ。どんなに誇り高い馬も、主人の鞭を恐れるものだ」  スィグルは、無意識のうちにに、かすかに首を横に振っていた。父からも、神官からも、教師たちからも、今までにそんな話は聞いたこともなかった。 「信じる必要はないけど、本当の話だ。君たちも、洗礼名を授けられる儀式の時に、似たようなことを経験しているはずだ。神殿の秘密を記憶しておく権利を持っているのは、神籍の者だけなんだよ」  微笑して、シュレーは言った。洗礼名を授けることができるのは、杖と神籍を持つ高位の神官だけと定められている。言葉を話す歳まで成長すると、王族の男子は皆、神聖神殿から洗礼名を授けられることになる。純白の衣と金糸の縫い取りのある外套を着た、高位の神官がタンジールにやってきて、自分と弟のスフィルを抱き上げ、神殿の奥へと連れていったことを、スィグルも憶えていた。だが、その時に奥の小部屋で何があったのかは、思いだそうとしても思い出せなかった。神殿から戻り、母の手に帰された時には、もう、自分にレイラスという新しい名が付いていることを、至極当たり前のように思っていたのだ。  それ以後、目下の者たちは、スィグルのことをレイラス殿下と呼び慣わした。レイラスとは、詩編の中に登場する彗星の名だった。「彗星レイラス、その者の性、苛烈にして、天を穿つ炎の矢」という一節の中にだけ書き記された名で、特にどうということもない名前だった。弟のスフィルに与えられたリルナムという名も、やはり彗星の名だ。神官は、単に双子だからという理由で、兄と弟に同じような名前を授けたのだろう。  洗礼名は、ただの慣習だった。少なくとも、スィグルはそう信じている。だから、それを授ける儀式も、ただの習わしにすぎない。神殿への忠誠を示すという以外には、これといった意味はない。そのはずだ。しかし、シュレーは、何か大きな秘密を知っている者の余裕を見せて、嗤(わら)っている。 「大神官は沢山の秘密を持っている。血族の者でも、その全てを知っているわけではない。私が知っているのも、そのごく一部だけだ。大神官が世界を滅ぼすほどの大きな魔法を管理しているのは知っているが、それが具体的に何なのかは知らされていない。見たことはあるはずなんだが、思い出せないんだ。魔法の秘密を知っていていいのは、神聖一族の中でも、大神官ただ一人と定められている。その魔法を手にしたければ、自分が大神官になるしかない」  シュレーはひどく小さな声で話しているようだったが、その言葉は、一語一句漏らすことなく、スィグルの耳にちゃんと届いた。スィグルは、ふと胸に強い不安が湧くのを感じた。自分に名前を授けた神官も、これと同じような、ひどく密かな声で、新しい名前を囁きかけてきたような気がする。 「大神官の魔法には、名前がついているんだよ、レイラス。神殿の連中は、それをディノス・アシュワスと呼んでいる。ディノスは「凍てつく」という意味の神殿語で、アシュワスとは槍のことだ。ディノス・アシュワスとは、凍てつく槍という意味さ。詩編には、「荒れ野に佇む者」が「凍てつく穂先もて万の王国を滅ぼす」と予言されている。…ディノス・アシュワスは私のための魔法だ。世界を滅ぼすための」  シュレーは微かに唇を歪めただけだったが、なぜか、スィグルの耳元には、彼がくすくすと忍び笑いする声が聞こえていた。 「でも…このままでは私は大神官にはなれない。私が私の魔法を手に入れるのを手伝うと約束したら、なぜ無理なのか教えてあげるよ。その代わり、その時には君の口から、君の秘密を聞こう、レイラス。秘密を交換して、誓いを立てるんだ。簡単だよ。ほんの少し思い切るだけで、君は自分の憎しみにカタをつけられる」  自分に微笑みかけるシュレーの凍てついた声を聞きながら、スィグルは彼が少しも口を動かしていないのに気付いた。シュレーは声を出していない。だから、イルスも、シェルも、この話に気付かないのだ。  神官が魔法を使うという話など、聞いたことがなかった。だが、それでも、シュレーは魔法を使ってスィグルに話かけてきているらしかった。 「あんた…魔法を使うんだな」  かすれた声で、スィグルは問いかけた。いつの間にか、とても喉が渇いていた。シュレーは黙ったまま、首を横に振った。 「これは君たちの使う魔法とは違う。神殿では普通のことだ。重要な話は、言葉では伝えられない」  シュレーはもうスィグルから目をそらしていたが、その声は、まっすぐこちらを見て話しかけてくる者の声のように、スィグルの耳に聞こえてきた。神聖な声、神聖な言葉だ。それは、神聖神殿の奥でこそ、畏まって聞くべき声のように思えた。  「ところで、黒エルフでは、どうしてあの星のことを、『母なる星』って呼ぶんですか?」  突然、聞こえてきた異質な声に驚き、スィグルはびくっと体を震わせた。顔をあげると、シェルがスィグルの方を振り返っていた。スィグルは動揺して唾を呑んだ。いくぶん緊張した面もちで、シェルがこちらを見ている。違和感を覚えて、スィグルは一時考え込んだ。そして、シェルが「パスハ」の意味をちゃんと理解していることに気付いた。  「…黒エルフの言葉がわかるのか」  驚きを感じて、スィグルは上擦った声で尋ねた。共通語さえ話せれば十分と考えられている中では、たとえ王族であっても、他の部族の言葉を学ぶなど、ありえない話だ。まして、黒系種族の言葉を知っている白系種族など、聞いたことがない。 「勉強してきたんです。話せると役に立つかと思って」  照れたように、シェルは微笑んでいる。よく見ると、この森エルフは歳の割に童顔で、人なつこいところがあった。 「彼は全エルフ氏族の言葉を知っているわけだな。なかなか凄いよ」  感心したように、シュレーが呟く。密談の気配など微塵も残っていなかった。シュレーは今も十分静かに話していたが、先刻の密かな声の気配と比べると、ひどくうるさいように思えた。  シェルから目をそらして、スィグルは自分の足下の地面を見おろした。なにか落ちつかない気分だった。 「僕、本を読んで物を憶えたりするの、得意なんです。他になにも取り柄がないし……それに、喜んでもらえたら、僕も嬉しいから」  照れて恐縮した風に言って、シェルは話題を変えたそうにしている。自分が褒めそやされるのに慣れていないのだろう。  純朴そうなシェルの、剣を握ったことさえなさそうな手から、その白い指を切り落とす自分を想像して、スィグルは震えた。毎日一本ずつ。あいつらが母上にやったように、長く引き延ばされた恐怖と苦痛を味わわせることができたら、どんなに気が晴れるだろうかと思ってきた。  だが、人に恨まれる事さえ知らないような、この腹の立つ森エルフを拷問にかけて、飢えと恐怖の充満する地下の穴へ落とせば、本当に気が晴れるだろうか。死肉を漁る怪物に追い回され、心も理性もない獣のように共食いをさせれば、本当に、自分の胸に巣くった恐怖にケリがつくのだろうか。  スィグルは、自分の想像に吐き気を覚えた。そんなことで気が晴れるはずがないように思えた。だが、奴等は黒エルフの族長リューズの猛攻に腹を立て、その憂さを晴らすためだけに、スィグルに同じ事をやったのだ。森の者共は、苦しむ黒エルフの子供を見て、気味よさげに笑っていた。笑っていたのだ。笑いながら、スィグルの背中に嘲りの言葉を刻んだのだ。痛みと出血で気を失っても、何度も叩き起こされて、苦痛と屈辱を余すところなく舐めさせられた。スィグルには、奴等を憎むだけの理由が十分にあるはずだった。  そして、シェルはあの連中と同じ部族の血を引いている。こいつも、あの哄笑の中の一人だったかもしれない。そう思っても、スィグルにはなぜか、血を流して苦しむシェルを想像しただけで、それを哀れに感じている自分が分かった。  許せない。それだけは、どうしても許してはならない事だ。憎い仇に情けをかけるなど、あってはならない。  世界を滅ぼすのだという神官の誘いに乗って、取引きをするほうが、ずっとマシだ。  「着いた」  驚いたようなイルスの声が聞こえた。はっとして、スィグルは前を見た。そこには、針葉樹の森を分けて、唐突に灰色の石壁が立ちはだかっていた。  森の中を抜ける小道は、壁の下に潜り込んで、ぷっつりと消えていた。この先の世界があるのに、目の前の分厚い壁によって、そこへ続く道が断ち切られてしまったかのような風景だ。  イルスが足下に持っていた荷物を置いた。 「これが俺たちの世界の終わりか」  呟くイルスの声は淡々としていた。人質は学院の敷地から出ることができない。それが同盟の定める掟だ。学院の敷地を囲む防壁は、まさしく、彼らにとっての世界の果てだった。  イルスが、壁に歩み寄って、その灰色の岩肌に触れた。壁の高さは、イルスの身長の優に五倍はあるようだった。壁に触れたまま黙っているイルスの後ろ姿を、スィグルも黙ったまま見守っていた。誰も何も話しかけなかった。  「さて、飯にするか」  何事もなかったように言いい、イルスが戻ってきた。食事の時間だ。