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「河を渡る」

作:椎堂かおる

 船を待っていた。  湿って熱い空気が風もなく人々を包み、うだるような真昼の時間が、ねっとりと這うように過ぎていく。  船着き場は、細長い木の葉で|葺《ふ》かれた屋根があるだけの、掘っ立て小屋のような建物だ。人々はそこの地べたに直に座りこみ、思い思いの方法で時間をつぶしていた。  私には行く|宛《あて》がなかったが、とにかくこの河を渡ってしまいたかった。  一見、海かと思うほどの、雄大なる大河だ。泥のような色をした水がうねり、水量豊かに流れ去っていく。  |河岸《かがん》近くには、丸い形の大きな浮き草が繁茂していて、その上を歩けば、水の上に立っても沈まないのではないかと思えるような、鮮やかな緑の絨毯となっている。  浮き草は、鮮やかなピンク色の大きな蕾を、いくつもつけていた。  あれが咲く時には、ぽん、と弾けるような音がしそうだ。  私はそんな妄想をして、河岸の柵にもたれながら、わずかな荷物を抱えていた。  もう朝からずっと、ここで待たされている。地元の者らしい他の客たちが、文句を言う気配もないのを見ると、この船着き場に船がなかなか来ないのは、どうやらいつものことらしい。  とにかく暑い。|蒸籠《せいろ》の中で蒸されるように、暑い。汗にまみれた喉頸が、垢じみて痒かった。誰の目もなければ、今すぐ裸になって、目の前の河に飛び込んで泳ぎたいくらいだ。たとえ泥のような河でも、いくらか涼しくなるだろう。  私がそんな軽口を言うと、私に世間話をしかけてきた地元の老人は、楽しげに私を止めた。 「それは止したほうがいい、旅の人。この河には、人食い魚がおるから」  なんなら試しに飛び込んでみたらどうかという、悪戯好きな悪童の表情が、白髭を蓄えた老人の、穏やかな赤銅色の顔に浮かんでいる。 「人食い魚? それはいったい、どんな魚なんです?」  興味をそそられて、私は訊ねた。この際、どんな法螺話でも、退屈しのぎに有り難い。 「なに、どうということもない、普通の魚だよ。手のひらぐらいの大きさで、群れでやってくる。やつらは何でも食うだけだ。人も魚も獣も、分け隔て無くな」 「それは怖いですね」  調子を合わせて、私は応えた。すると老人はくしゃくしゃと顔をしかめた。 「いやいや、この河岸で本当に怖いのは人食い魚などではない。船に乗ってやってくる人買いだ」  首を振り、舌打ちをしながら、老人は語った。 「貧しさのあまり、娘を街に売って|糊口《ここう》を|凌《しの》ぐ連中がおる。ほら、見ろ、そこにもおる」  老人が指さす先を見ると、船着き場のすみに、ひとりでじっと座っている若い娘がいた。  すらりと伸びた美しい脚をしており、細かく波打った長い黒髪を、華奢な体にまとうように伸ばしている。赤銅色の肌をした顔には、硬い表情が浮かんでいたが、河を見つめる彼女の黒い瞳は、はっとするほどの強い視線を放っていた。  綺麗な娘だった。  荷物に腰掛けて、河を見つめる横顔をこちらに向けている彼女に、私はしばし見とれた。  彼女は首からさげた、麻ひものようなものを、しきりに指でなぶり、そこに吊してあるらしい何かを、まさぐっている。首飾りのようなものに、私には見えたが、それは美しい彼女の身を飾るには、あまりにもお粗末だった。  彼女のためになら、高価な装身具や衣装を、いくらでも買い与える男がいるだろう。河岸の泥に咲いた、鮮やかな花のように、彼女はこの船着き場の埃っぽい空気の中でも、際だって美しい、異質な存在だった。  それは周囲で待つ者が、彼女を避ける様子でいるせいかもしれなかった。こんなに美しい娘なのに、誰も彼女に微笑みかけもせず、物欲しげに眺める者さえいない。忌まわしい不運に関わらぬようにと、皆が皆、知らん顔を決め込んでいるらしかった。  その姿に、じっと目を向けているのは、通りすがりのよそ者である私ひとりだ。  娘は私の視線に気づく様子はなく、決然と押し黙り、河を見つめるだけだった。  やがて不意に彼女は立ちあがり、首からさげていたものを、力任せに引きちぎった。そして手の中にある何かをじっと見つめ、とうとう意を決したように、河へ向かって投げ捨ててしまった。  彼女が何を投げたのか、私はとっさの興味で河へと視線をうつした。長い弓のような軌跡を描き、それは丸い浮き草の尽きた先の、河の流れの中へと落ちていった。  河の上流から、一艘の白い船が現れていた。  船体は三階建てになっており、船の両脇に二つ建った黒い煙突から、もうもうと白い煙を吐いている。その客船は外輪船と呼ばれる種類のもので、石炭を焚いて湯をわかし、その蒸気で水車のような巨大な輪を回して、船を推進させる仕組みになっているものだ。  汽笛を鳴らし、船はこちらへやってきていた。  船着き場で待ちくたびれていた乗客たちが、一斉に、よっこらせと重い腰をあげる。  ゆっくりと接岸した外輪船は、大人の腕ほどもある太い|舫綱《もやいづな》で、船着き場に係留された。船の柵が開くと、そこから降り立つ乗客は多くはなく、街から戻った土地の農民ふうの者がちらほらいる他には、明らかに異質な、太鼓腹で、口ひげを蓄えた、赤いシャツの男がひとりきりだった。  男は白いハンカチをとりだして、汗をふきながら、大股で船着き場へと入り込んできた。一目見て、いやな男だと思える人物だった。  旅を楽しむふうでもなく、嫌々やってきたという不愉快顔で、河岸に降り立ち、男は少しの間きょろきょろとして、船に乗り込んでいく他の乗客たちの中を、探し回る目をしていた。  太った男の目元は、だらりと緩みきっており、鈍重そうだったが、それでも群れの中から、|屠《ほふ》る一頭だけを見極めるような、鋭い目つきだった。  大汗を垂らしながら、男は立ちつくして自分を見ていた若い娘を、やっと見つけた。  私と老人は、それを眺めた。  男は酒に焼けたような大声で喋った。 「こりゃあ別嬪だなあ、畜生め。これなら街の旦那も気に入ってくださるだろうよ。お前は運がいいぞ。旦那は牧場もお持ちだし、こんな田舎の連中には思いもつかないような、学もおありになる立派なお方だ。せいぜいご奉仕して、可愛がってもらえ」  大笑して、男は腫れたような指をした手で、娘の尻を叩くように撫でた。  娘はただ、うつむきがちに、険しい顔でそれに耐えていた。  そうしていると、彼女はまるで、殉教者のようだった。これから火にあぶられるか、銃で撃たれるかするが、それでも我が身に変わりはないと、そういう決意の表情をしていた。 「それにしても汚ねえ|形《なり》だなあ。街に着いたら、綺麗な服着て、化粧もしねえと。別嬪さんに磨きをかけてやるから、楽しみにしてろ。さあ、とっととご乗船といこうや」  汗をふきふき、男は娘に背を向けた。  彼は娘の手を引くわけでも、縄をかけるわけでもなかったが、彼女が男に牽かれていくのは、誰の目にも明らかだった。  抗いもしない重い足取りで、娘はさっさと歩く男に従い、とぼとぼと乗船口へ歩いていった。 「ナナ!」  その時突然に、船着き場に走り込んできた者の声が叫んだ。  娘はそれに、驚いたふうに振り返った。  太った男もそれに倣い、私と老人も、叫んだ者のほうを見た。  そこには粗末な格好をした、しかし若くて健康そうな青年が立っていた。全力で走ってきたらしく、彼はまるで雨にでも降られたように、赤銅色の顔に、滴るほどの汗をかいていた。 「行かないでくれ、ナナニータ」  乱れた呼吸を整える間もなく、青年は、まだ乗船口にいる娘に、喘ぎ喘ぎそう呼びかけた。  それが彼女の名前のようだった。娘はどこかぽかんとして、青年を見返した。 「やっぱりお前を、忘れるのは無理だ。俺の女房になって、一緒に住んでくれ。俺が一生懸命働いて、借金も返すし、お前の家族も食わせていくから」  そう掻き口説く青年の顔は、滑稽なまでに真剣そのものだった。娘は険しい顔で、じっと彼を睨んだ。そして今はもう無くなった、あの粗末な首飾りを、彼女は探ろうとした。それがいつもの癖だったのか、そこにあるはずのものを握ろうとする指が、一瞬彼女の豊満な胸元をまさぐったが、指は何もないところを虚しく掴んだだけだった。 「何を寝ぼけたことを言ってやがるんだ、こん畜生が」  太った人買い男は、大笑して言った。 「こいつの借金を、てめえみたいな貧乏人の|小倅《こせがれ》が、返せるわけがねえ。この|女《あま》の飲んだくれの親父がよう、いくらせびったか知ってるのか。娘が別嬪なのを笠に着て、ずいぶん吹っ掛けやがったよ。とっとと帰んな、若造。お前にゃあ、勿体ねえ上玉よ」  面白い冗談を聞いたという笑い方で、人買いは笑い続け、うつむいて立ちつくしている娘の腕をとった。それに引かれるまま、娘はやはり、とぼとぼ歩いた。  青年は食い入るように娘を見つめたが、彼女はただそれに背を灼かれ、項垂れて甲板にあがってゆくばかりだった。  老人は私と顔を見合わせた。 「乗ったらどうかね、旅の人。船はもうすぐ出るだろうよ」  柔和に微笑んで、老人は私に勧めた。その口調が見送るふうに聞こえたので、私は軽い驚きを覚えた。 「お爺さんは、乗らないんですか」  私の問いに、老人は頷いた。 「|儂《わし》はここに、船に乗る連中を見に来ておるだけだ。気をつけていきなさい、旅の人。河には人食い魚がおる。わずかでも血を流している時は、決して河に落ちるでない。やつらは血を嗅ぎつけると、あっという間にやってきて、あんたを骨だけにしちまうからな」  憎めない意地悪さでそう教え、老人は湿気た熱気の中でも、なぜか不快さのない温かく乾いた手で、私の頬をぽんぽんと優しく叩いた。それは別れの挨拶だった。皺だらけに乾いた手のひらが、自分の肌に触れた一瞬で、私は不思議に勇気づけられた。  こちらも別れを告げ、船に乗り込んだ。  乗船口の柵が閉じられ、船の煙突があげる、もうもうとした蒸気が、さらに強まった。  |舫綱《もやいづな》が解かれ、出航を告げる河船乗りたちの声が、低く朗々と川面に響いた。船を推進させるための黒い鉄の|外輪《がいりん》が、機構のうなりと水音をたてて回り始めた。  甲板から見返すと、青年はまだ船着き場の入り口で、じっと佇んで娘を見ていた。  人買いは|舷側《げんそく》から物見高くそれを見返し、煙草に火をつけた。  娘は両手で舷側を掴み、じっと青年を見つめ返していた。  河からは泥を溶かした水の、何とはなしに薬くさいような苦い匂いが立ちのぼっていた。どこかで密林の獣が吼えていた。  船が岸を離れた。  ゆっくりと用心深く、船は岸辺の丸い浮き草を押し分けて出て行った。鮮やかなピンク色をした蕾が、はじかれて咲くのではないかと、そんな妄想が湧いた。  浮き草と思っていた大きな丸い葉たちは、長い茎で水底からつながってでもいたのか、船に押しやられても、結局もとのところへ戻っていき、またすぐ川面を埋めた。  その上を歩いて、また岸に戻れそうな密集した群生だった。  船がその濡れた緑の果てるあたりまで岸を離れる頃、私は川面の丸い葉に、何かが浮き沈みして引っかかっているのに気づいた。  娘が投げた首飾りだった。  濁った河の悪戯か、流れに揉まれて、押し戻されて来たようだった。  甲板から見下ろすと、それはただの木ぎれを削って作った不器用な品で、細長い棒のようなものに、地元の部族の|祖霊《トーテム》らしきものが彫り込まれていた。その正体が何か、旅人である私に分かるはずもなかったが、なぜかその|象《かたち》は、愛を守護する魔法を持った者と思えた。  ふと見ると、娘も川面の落とし物を見つけたようだった。  彼女はさらに険しい表情を、眉を寄せた美しい顔に浮かべ、じっと睨むような目で、濁った水面に見え隠れする首飾りを見下ろしていた。 「ナナニータ」  いつの間にか河岸の水際まで来ていた青年が、船に叫んできた。娘は、はっとしてそれを見た。 「俺がやった、約束のお守りはどうしたんだよ。お前はあれを、捨てちまったのか」  叫ぶ声に訊ねられ、娘は首飾りを探る手で、自分の心臓のあたりを掴みしめた。 「落としちゃったのよ、レオニート」  想像もしていなかったような美しい絶叫で、娘が答えた。  ぎょっとして、私も人買いも、美貌の娘を見た。甲板の誰もが、ぽかんと驚いて、娘を見た。 「河に落としちゃったけど、でもそこにある。草に引っかかってるの」  川面を指して、娘は教えた。そうかと答える青年の声が、川面を渡ってきた。 「心配するな。俺が拾ってやるから」  そう言って、青年はおもむろに、河に飛び込んだ。  船着き場の老人が、面白そうにそれを目で追った。  ほとんど水しぶきをあげない軽快な抜き手で、青年は丸い草の葉を押し分けて泳ぎ、娘が指さしたあたりへと、あっという間に泳ぎ着いた。  離れてゆく船の上から、娘は両手で口を覆って、それを見ていた。  青年がこともなげに見つけて拾いあげた首飾りを、振りあげた手に握っているのを見つめ、娘は目を見開いて胸を喘がせていた。 「あったよ、ナナ」  器用に立ち泳ぎしながら、青年は叫び、まじめに教えてきた。  船上のナナニータはそれに大きく頷いただけだった。 「戻ってきてくれ、ナナニータ。俺と暮らそう。お前のためなら、ジャガーだって素手で殺してみせる。お前もここで、一緒に戦ってくれ。俺と生きよう」  再び掻き口説く若者の声は、しだいに遠ざかっていった。船は流れをつかみ、速力をあげるらしかった。  娘は微かに震えながら、押し黙っていた。 「ばかな色男があったもんだぜ」  煙草を吸いながら、人買いが笑って罵った。  それを聞き終わることもせず、娘が舷側に足をかけた。  河に飛び込もうとする彼女に、人買いが驚いて飛びついた。男に比べて華奢な体に、背後からとりついて激しく揉み合う様子は、まるで太った人買いが哀れな娘を力ずくで犯そうかという有様に見えた。  それに呆然として、船上の人々はどこか青ざめ、二人を見つめている。 「やめねえか、このくそ|女《あま》が。金はもうお前の親父に払ってやったぞ。いまさら逃げられると思うなよ」  怒鳴って男は娘の体を甲板に引き戻した。男がくわえていた煙草の燃えさしが、|唾《つばき》とともに河に落ちていった。  娘は甲板にうつぶせのまま押し倒されながら、男を振り返って、その顔に容赦なく爪をたてた。 「はなしてよ、この悪魔。誰があんたみたいな豚野郎に買われていくもんか」  娘は美しい声なのに口汚かった。  それでも娘は、少しも下品には見えなかった。この河岸の密林と同じ、天性の野性味のある美が、彼女を包んで見えた。  |固唾《かたず》を呑む船上の空気は、明らかに彼女を応援していた。  河岸から、この男に娘が|掠《さら》われてゆくのは、これが最初じゃないだろう。船に乗るうちの幾人かは、別の娘が泣きながら河を下るのを、見た者がいるのだろう。  誰も手を出せずに立ちすくんでいるので、私は思いあまって、娘に加勢しようかと思った。  しかし娘が、乱れたスカートの裾から露わになった脚で、人買いの男の急所を激しくけっ飛ばしたのは、まさにその時だった。  ぎゃあっと悲鳴をあげて、太った男は股間を押さえ、甲板に背を丸めうずくまった。  見守る人々はそれぞれに、猛烈に痛いという顔と、してやったりという顔をしていた。  娘は男の体の下から勢いよく這い出し、そのままの素早さで、舷側に足をかけ、一瞬の迷いもなく河に身を躍らせた。  水しぶきがあがった。  さすがに彼女は河岸の娘だった。先ほどの若者が見せたのに似た、華麗な抜き手を切って、彼女は河を泳いだ。まっしぐらに、若者の待つほうを目指して。 「畜生め、なめやがって……」  汗と血を滴らせ、人買いが立ちあがった。  男の頬を引っ掻いた娘の爪は、想像以上に鋭かったらしい。  ざっくりと二筋、男の無精ひげの伸び始めた頬に、縦に引き裂かれた傷が走っていた。  その傷よりさらに血走った憎悪の目で、男は河を泳ぎ戻る娘の背を見ていた。  そしてそれを追うため、舷側に足をかけた人買い男を、皆がじっと押し黙って見つめた。  男が血を流しているのを、おそらく誰もが見ていた。  そしてこの河にいる、血を好む魚のことを、脳裏に思い描く静かな戦慄した目を、皆がしていた。  ざぶんと激しい水音をたてて、男は飛び込んだ。  誰ひとり、悲鳴もあげずにそれを眺めた。危ないから止せと教えてやる者も、誰ひとりいなかった。  私もそれを、ただぼんやり見守った。  人買いは水しぶきをあげて泳ぎ、娘を追いかけた。その距離はなかなか縮まらなかった。  娘はもうすぐ愛しい男のところに泳ぎ着きそうだった。  畜生めと人買いが叫ぶ声がした。  それは始め、娘か、その相手の男に向けられたものだった。  しかし大した間断もなく、男が悲鳴をあげるのが聞こえた。泳ぐのをやめて、畜生めと、彼はまた叫んだ。腕や脚をばたつかせ、彼は何かを振り払おうとしていた。  やがて見る間に、男を包む水面が泡立ち、小さくはね回る泥のような水面に、真っ赤な血がまじり始めた。逃れようと藻掻く男の悲鳴は、耳を突く恐ろしい絶叫に変わっていた。  泳ぎ着いた娘は、愛しいレオニートと抱き合い、振り返ってそれを見た。  船上からも、無数の目が、河に食われていく都会の男を見下ろしていた。  魚たちはすみやかに食事を終えた。船着き場の老人が言っていたとおりだった。  泡立つ水面に、どれくらいの数の魚が集まったのかは、一見しただけでは分からない。魚たちは貪欲に食べ、水面を汚した血液までも、すべて綺麗に平らげてしまった。  男の骨はたぶん、水底の泥に沈んだだろう。  そしてそれは、魚よりもっと貪欲で、ゆっくりと食う微細な生き物たちに、しばらくの饗宴を与えるだろう。  若い男女は、目の前に見た恐怖を振り払うように、お互いをそれから守るように、川面を見つめたまま、ぎゅっと固く抱き合い、それから離れて、船着き場へ戻るために、それぞれ静かに泳いでいった。  船はもう、河を下り始めており、泳ぎ戻った彼らが老人に手を引いて助けあげられ、水浸しの体で河岸に再び立ったのを、私はちらりと見ただけだった。  河岸も密林も、どんどん流れ去って見えなくなった。  下流にある対岸の都市まで、一日半の船旅とのことだった。  私はそこからさらに西へ、旅を続けるつもりだった。  だからこの場所へ再び戻る日があるかは、怪しいことだ。  だが、もしも。あてにならない風の便りにでもいい。この密林の出来事を、遠い旅の空の下に、伝え聞くことができるなら、私は訊ねてみたかった。  美しいナナニータがそれからどうなったか。一途なレオニートが彼女のために、素手でジャガーを倒したか。彼らが遠い密林で、幸せに生きられたか。  そんな旅先のおとぎ話を、私に聞かせてくれる風があればいいが。  外輪船は熱帯の川風の中、泥の河を快調に下っていった。  私はその夜、ねっとりと熱い密林の風にふかれ、揺れるハンモックで眠った。とても静かで、時折けたたましく、獣の騒ぐ夜だった。
 
──完──
 


 
2021/01/05 Notionにて掲載
website「TEAR DROP.」で公開した作品の再掲です