008:悪夢の迷宮

 
 水が滴り落ちる音が聞こえる。  それは、いつもの悪夢の始まりを告げる符丁だった。力を使いすぎると、いつも決まって同じ夢を見る。子供の頃の悪夢が、くり返し意識に昇ってくるのだ。  規則的に聞こえる水音が、誰かの足音のように思えて、スィグルはゆっくりと振り返った。  背後には、大人なら背をかがめないと頭をぶつけてしまいそうな、狭い通路が続いていた。天井に所々あけられた空気穴から差し込む月明かりだけが、暗闇に沈む地下通路を照らし出す光だ。膝の少し下あたりまで、カビ臭い匂いのする濁った水がたまっている。天井で結露した水滴が、あちらこちらの水面をうつたびに、かすかな水音が通路にこだました。  足音のように思えたのは、錯覚だったようだ。心臓がしめつけられるような感覚のため、スィグルの呼吸は早くなっていた。  恐れる必要はない、と、スィグルは自分に言い聞かせた。これは夢だ。ただの夢だ。ただの夢だ。ただの夢だ。何度も自分の言葉を反芻するうち、スィグルの心臓は主人の言葉を受け入れ、落ちつきを見せはじめた。  わずかな月明かりでも、暗闇に棲む一族に生まれたスィグルの目には、通路の隅々までが見渡せた。曲がりくねり、枝分かれした通路には、壁の丸い石が濡れて光っているばかりで、人の気配はしない。  湿った暗闇の中で、たった一人だった。  なるべく水音を立てないように、細心の注意をはらいながら、スィグルは通路の奥へと進みはじめた。通路の向こうには、スィグルを待っている者がいる。双子の弟のスフィルだ。熱を出して震えていた弟の、自分にそっくりな顔を思い出して、スィグルの気は焦った。戻ったらもう、弟が死んでいるような予感がして、不安なのだ。  細い通路を抜けると、天井の高い空間に出る。他の通路とは違い、その空間の壁は天然の岩盤でできていた。濡れて乳白色に光る岩肌には、無数の空洞がえぐり取られている。そのひとつひとつには、ボロをまとった遺骸が横たえられている。その中には、すでに骨になっているものもあった。  ここは墓なのだ。  暗闇に身をひそめたまま、スィグルは空洞に誰もいないかを見極めようと、いそがしく視線をさまよわせた。聞こえるのは水滴が落ちる音ばかりだ。誰もいない。  もう一度あたりをうかがってから、スィグルは足音をひそめ、壁に穿たれた墓穴のひとつに近づいていった。  膝を抱え、そこに頭を預けたままの姿の亡骸が、墓穴を塞いでいる。それを躊躇いもなく押し退け、スィグルは墓穴の奥の暗闇に潜り込んだ。  「スフィル」  かすかな声で、スィグルは弟の名を呼んだ。耳をすますと、苦しげな息づかいが聞き取れる。まだ弟が生きていたことを確認して、スィグルはほっとため息をついた。  「スフィル」  暗い墓穴の奥に、膝を抱えている小さな人影があった。恐がらせないように名前を呼びながら、スィグルは奥へと這い進んだ。  月明かりのほとんど届かない闇の中で、ぼんやりした光が二つともった。薄青い、猫のような瞳。スフィルだ。  ほっと安堵した瞬間、スィグルは自分が夢を見ているのか、それとも、本当に地下の穴蔵にいるのか、区別がつかなくなった。そんなはずはないと自分に言い聞かせながらも、スィグルは目眩を感じていた。力を使いすぎた後に感じる疲労で、体中の関節が軋んでいる。そして、胃を締め付ける空腹感。「あの頃」と同じだ。  「スィグル」  かすれて消えかかった声で、弟が応える。弱々しく伸ばしてきた弟の手をとり、スィグルは自分とそっくりな弟の顔を覗き込んだ。すっかりやつれて、落ちくぼんだ目だけが大きく見えるスフィルの顔。おそらく、自分も鏡に映したように同じ顔をしているのだろうと、スィグルは考えた。  スフィルがちゃんと生きていた事が嬉しく、スィグルは弟の痩せた身体をきつく抱きしめた。骨の感触のするスフィルの身体は、熱が高いのか、気味悪く火照っている。弟が目に見えて弱っているのを感じて、スィグルの心臓は鼓動を早めた。  「スフィル、食べ物を持ってきたよ」  スィグルはなるべく明るい声をつくって、スィグルに告げた。  「スィグル……タンジールに帰りたい…」  熱に浮かされた声で、スフィルが譫言を言う。懐に隠していた肉を取り出しながら、スィグルはその言葉を黙って聞いていた。  「食べられるか?」  スィグルは抱き抱えたままのスフィルの鼻先に、獲物の肉をもっていった。ひとかたまりの肉からは、まだ血が滴り落ちている。スフィルは目を閉じ、かすかに首を振った。身体が弱っていて、食べ物を受け付けないのかもしれないが、スフィルが拒むのはそれだけが理由ではないことを、スィグルは知っていた。  「死んだら帰れないぞ」  押し寄せる疲労を払いのけるため、スィグルはいくらか強い口調で言った。スフィルが薄く目を開く。 「…僕らはここで死ぬんだ」  それを受け入れている口調で、スフィルが呟いた。 「だったら早く死にたい」 「父上の軍がもうすぐそこまで来てる。僕らを助けに来るんだよ。スフィル」  弟の目を覗き込んで、スィグルは言い聞かせた。スフィルが珍しく微笑を見せた。 「スィグルは本当に嘘が下手だね」 「嘘じゃない」  スフィルがこのまま死んでしまいそうな気がして、スィグルは何とか弟を励まそうとした。しかし、言い終わらないうちに、涙があふれだしてスフィルの顔にぽたぽたと落ちた。  口元に落ちたスィグルの涙を、スフィルは赤い舌を出して舐め取った。 「美味しい」  無邪気な声で、スフィルが呆然と呟く。スィグルは耐えられなくなって顔を覆った。  「こんなの夢だ。ただの悪い夢だ。目がさめたら、タンジールの王宮にいるに決まってる。スフィル、死なないで…死なないで、死なないでよ!」  弟の身体を抱きしめて、スィグルはひそめた声で懇願した。  突然、土くれが崩れるような音をたてて、墓穴を塞いでいた遺骸が転がり落ちた。穴の入口に、月明かりで浮かび上がった人影が見える。  スフィルが狂ったように甲高い悲鳴をあげた。足を捕まれたスフィルが、墓穴から引きずり出される。  「助けて!スィグル!!助けて!」  気付くとスィグルは恐怖のためにガタガタ震えていた。  弟を助けなければ。  たった一人暗闇の中に取り残されるのは嫌だ。  意を決して墓穴を飛び出すと、そこにはスフィルしかいなかった。濁った水の中に半分沈んだスフィルの身体は、血で真っ赤に染まっている。引きずり出された腸が生々しい白さで水面を漂っている。スィグルは吐き気で息をつまらせた。  「スィグル」  いやにはっきりした声で言い、瀕死のはずのスフィルが目を開いた。  「スィグルはどうして僕が死ぬのがいやなの?」  スフィルが笑っている。  「僕が大事だから面倒をみてくれたわけじゃないよね?」  腹を裂かれたまま、スフィルはこともなげに身を起こし、スィグルを見上げてくる。  「あさましいよ、スィグル。僕がいなくてもスィグルは生き延びられるだろう。その力さえあれば…この穴蔵でも生きながらえられる。タンジールに帰れなくても、ずっとここで生き続けるんだ。スィグルはそれが嫌なんだよね。一人でそんなふうに生きていたくないんだろ?」  滝のように血を流しながら立ち上がり、スフィルはスィグルのほうに近づいてくる。  「違う…違うよ、スフィル……死んだら帰れないじゃないか。一緒にタンジールに帰るって約束したじゃないか」  悲鳴と変わらない声で、スィグルは弁解した。死霊のように凍てついた息を吐きながら、スフィルがけたけたと笑う。 「スィグルは本当に嘘が下手だね」  スフィルが身体を揺らすと、引き裂かれた腑(はらわた)がぼたぼたと水の中に落ちた。  「…お前、あのまま死んだ方がましだったって言うのか!」  顔を覆って、スィグルはうずくまった。腐った水の臭いで頭が割れそうになる。 「タンジールには、ちゃんと帰れたじゃないか。僕の言うことは本当だった。本当だったんだぞ!!」 「じゃあ、何がそんなに怖いの、兄上」  肩に冷たい手が置かれる感触がした。生温かい血が背中に降り注ぐ。  恐ろしさで、どうしても弟の顔を見上げられず、スィグルはうずくまったまま震えていた。 「どうやって生き延びたか聞かれるのが怖いんだろう」  クスクスと笑うスィグルの声が、すぐ耳元で聞こえた。汚水に濡れた髪を捕まれる感覚がして、ものすごい力で顔を上げさせられると、自分とそっくりな顔で笑っている弟と目があった。  引き裂かれた腹に手を入れ、スフィルは自分の肝臓を引きちぎった。血の滴るそれをスィグルの鼻先につきつけ、スフィルはにやりと笑う。 「食べられるかい、兄上」  のどの奥にゆっくりと悲鳴がこみあげるのを、スィグルは感じた。 「食欲がなくても食べなくちゃ。なんなら、僕が口移しで食べさせてあげるよ。兄上がそうしてくれたみたいにね」  クッとスィグルはおかしそうに喉を鳴らす。 「生き延びるためには、仕方がないんだよねえ……スィグル?」  唇に押しつけられた肝臓は、まだ温かく、まぎれもない血の味がした。 「でも、僕は? 僕も仕方ないって思ってたかな? 僕がスィグルと同じように考えると思う?」  ふっと理性が途切れるのを、スィグルは自覚した。 「黙れ!! これはただの夢なんだよ!」  喉が張り裂けそうな声で、スィグルは叫んだ。 「お前は本物のスフィルじゃない! あいつはタンジールにいるんだ。こんな所で死んだりしなかった。僕が生き延びさせてやったんだ!! 僕が助けなきゃあいつは死んでいた! 僕は…僕は正しいことをしたんだ!!」  言葉と同時に、制御できない力がスィグルの中から暴れ出して、目の前にいる弟の身体をはじき飛ばした。  血煙をあげて、スフィルの身体はばらばらの肉片に変わり、濁った水の中に次々と降り注ぐ。  「…スフィル……!」  はっと我に返って、スィグルは千切れとんだ弟の体を拾い集めようとした。赤く濁った水の底で、長い髪がスィグルの指に触れた。スィグルは無我夢中でそれを拾い上げた。水から引き上げたそれは、砕けたスフィルの顔の反面だった。薄青い光彩を備えた眼球が、こぼれ落ちそうになりながら、片方だけ残っている。双子の弟の黒髪をからみつかせた自分の手が、ぶるぶる震えているのを、スィグルは他人のもののように見おろした。 「逃げられないよ…兄上……どんなに遠くへ行ってもね」  粉砕された肉片の中で、自分とそっくりなスフィルの薄赤い唇がにやりと歪む。  押しとどめられない悲鳴が、灼けるような熱さでスィグルの喉を衝いた。スィグルは、悲鳴を止めようとは思わなかった。そうでもしなければ、体の芯から湧き上がる恐怖が、自分を狂わせてしまいそうだった。