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「早暁に発つ」

妖精の湧く沼があると聞き、私は早暁に街を発った。  その沼は、街からしばらく歩いた山間の、古い森の中にあるとのことだった。  妖精が羽化するのは、夜明けから昼前までのことだそうで、夕刻にはもう、短い一生を終えて死に絶えてしまうらしい。それでは、なんとしても、群舞する妖精が見られる昼ごろまでには、その沼にたどり着いていたい。  前夜より野営をして、夜明けを待っていればいいのではないかと、宿屋の主人に訊いてみたのだが、ああ、お客さん、それはおよしなさいと、主人は皺だらけの厳つい岩のような顔をさらに顰《しか》め、とんでもない愚行であるというふうに、私に首を振ってみせた。  妖精だけじゃない。虻《あぶ》やら蚊《か》も、わんさと湧くんでさあ。このあたりの虻《あぶ》は、ただならぬ毒があるから厄介だ。翌朝にはもう、形相が変わっていたなんてことになりたくなきゃあ、沼で夜明かしなんて、しないことですぜ。  そういう親父の顔は、もしや以前にその沼で、夜明かししたことがあるのではないかというような、猛烈なあばた面だった。  しかし、私は念のため、その話題に触れるのは止した。  もしも違った時に、相手が怒ると厄介だったからだ。  そうしてそのまま、私はおとなしく宿屋の二階で眠り、早暁、乾いたパンと、暖炉のとろ火で温められていたスープだけの朝飯をとって、その宿を後にした。  せかせかと、沼で見られる光景を楽しみに歩く道のりは、白々とした夜明けの光に照らし出された、白い石造りの道に始まり、やがて森の中をゆく、踏み分けられただけの砂地へと変わって、最後には、下草に紛れて消えてしまいそうな、頼りない獣道へと姿を変えた。  それでも、鬱蒼とうらぶれた人の手の及ばない密林ではない。妖精の沼を見たいという旅人は、私のほかにも大勢いるとかで、年に一度、ある満月の夜に生まれ出てくるという、小さな人型の羽虫を眺めに来る客は、年々歳々ここを通る。道はそうした人々に踏み分けられて、辛うじて残っているもので、私もその踏み分け道を維持する助けになるはずだった。  しかしもっと、大勢の見物人がいてもよさそうなものだと、私は不思議だった。  なんといっても妖精だ。そんなものが実在するとは、私には到底思えず、それが虻《あぶ》やら蚊《か》の仲間であるように言う、宿屋の親父の話しぶりには、違和感を覚えた。  いるところには、いるものか。そして、いるところでは、ありふれたものなのか。うら寂しい踏み分け道を行く人影は、私の他には誰もなかった。  そんな孤独な道のりを、私は黙々と行き、やがて宿屋の親父から教えてもらっていた、目印になる大樹を遠目に発見した。  怪物的に巨大な楡《にれ》の木だった。一体どれほどの樹齢を重ねた木だろうか。遠目に見えるその姿は、他の木々よりとびぬけて高い枝振りで、長年の風雪に耐えた証か、節くれた分厚い樹皮を持つ、立派な幹をしていた。  壮大な枝振りは周囲の木々を圧倒し、古楡《ふるにれ》の周りには、その古木を畏れるように、枝先を触れて立つ木すら無く、森の最中《さなか》にぽっかりと、少々の開けた土地が作られていた。  その木の足下に、沼はある。  ふつふつと静かに泡の浮いてくるような、草むらに囲まれた濁り水の、ちょうど、二つの円を一部くっつけたような形をした、ちっぽけな沼だった。  魚がいるのか。時折、尾鰭でかき混ぜられたような、かすかなさざ波が立つ。しかし水質は悪く、泥と緑色の細かな藻で濁りきった水の奥底は、はかりしれなかった。  妖精などというものは、もっと澄んだ水に棲みつくものかと思っていた。そんな肩すかしを覚えつつ、お誂え向きにそこにあった、沼のほとりの切り株に、私は腰かけ、宿屋からもらってきた革張りの水筒から、ゆっくりと水を飲んだ。  飲み水を、節約しなければならないなと思えた。この沼の水を、私が飲めると思えない。  そんな水面を見つめ、わずかに喉を湿す程度の水分を補給して、水筒の蓋を閉めかけた私に、それは話しかけてきた。 「美味そうな水だのう、それは……」  老人のように、しわがれた、腹にずしんと響く低い声だった。  誰だと驚き、私は切り株に腰掛けたまま、きょろりと辺りを見渡した。しかしそこには、誰もいない。私ひとりが、波打つ女の髪のような、細長い草のなびく草むらに座しているだけで、人らしいものは、どこにもいない。  ただ楡《にれ》の巨木だけが、私を見つめている。  そう、それはまるで、見つめているようだった。節くれた幹の下の方に、ねじれた樹皮の波打つ様子が、たまたまだろうか、人の顔のように見える。それにある、重そうに腫れた目蓋の下に、あたかも本当に目があるように思え、私はそれと、じっと見つめ合った。 「もしよければ旅の人、ほんのちょっとでかまわんのだ。私にもその水を、飲ませてはくれまいか。ほんのちょっと、この根方にこぼしてくれるだけでよいのだが」  木がそう、私に喋っていた。  ごつごつとした樹皮に覆われた、分厚く乾いた唇で、もぐもぐと何かを噛みしめているような、老人めいた話し方をして、木はあたかも人と変わらぬ心があるかのように、のんびりとくつろいで話しかけていた。 「少ししか、お分けできませんが。それでもよろしいでしょうか」  答えぬほうが無礼だろうと、自然にそう思え、私は木に返事をしていた。我ながら、よもや樹木と話す機会があろうとは、旅とは計り知れないものだ。 「少しでかまわんのだよ。味見程度で充分なのだ」  ゆったりと、木はそう言った。私が水を分けようが、分けまいが、どちらでもよいというような、のんびりとした話し方だった。  それでも物言わぬはずの木が、水をくれというのだから、余程のことだろうと、私は思った。  わずかな飲み水だが、宿へ戻れば井戸から汲める。しかしこの地には、濁った瓢箪《ひょうたん》のような池があるのみで、このところ雨もない。旅先で出会った喋る木と、清水を酌み交わすのも、これはこれで乙なものではなかろうか。  私はそう決めて、古木の根方に清水を撒くため、立ち上がった。 「すまないなあ、旅の人よ。ここらの水は澱んでおってな、妖精まで湧く始末じゃ。儂も長年この地に生えておるからには、贅沢は言わぬのが常なのだが、やはり清水の匂いを嗅ぐと、その格別の味を思い出す」  ぶつぶつと楽しげに言い訳をして、古木は私がふりかけてやった清水を、地中の根から味わったようだった。  美味い美味いと、甘い酒でも飲むように、古木は喜んで歌った。 「先ほど、妖精が湧くとかおっしゃいましたが、やはりここには妖精が出るのですか?」  世間話として、私はそれを訊ねた。すると木は低く笑った。 「出るとも。ごらん、繭《まゆ》があるだろう」  古木に促され、私がふたたび辺りを見渡すと、なびく草むらのそこかしこに、薄黄色い糸で巻かれた繭が、数知れずとりついていた。初めは虫かなにかの繭玉だろうと思い、気にも留めなかったその数が、全て妖精になるのかと思うと、圧倒されるような光景だ。  妖精なんてものは、一匹二匹飛び交うだけでも、一見の価値在りと、私はなんとなく想像していたのだが、まさかそれが沼の水面を覆い尽くすような大群とは、思ってもみなかった。 「これぞまさしく、雲霞《うんか》のごとくじゃ。日没の頃にはこの一帯、妖精どもの羽音とわめき声で、耳を聾《ろう》するほどになろうよ。立ち去るのであれば、早いほうがよいのではないか、旅の人」 「いいえ、とんでもない。私はその妖精を見るために、はるばる来たのです」  私が驚いて答えると、木は笑った。腹があるなら、腹を抱えていただろうというような、深い奥底からの笑い声だった。 「人間というのは、時々、妙なことをするものだ。見てどうするのだね、妖精なんぞ」 「どうと言われましても。後学のために、と言いますか……ただ単に、物珍しいからです」  ここでは珍しくもないのだろう。それを見たいという自分が、なにやらとても物好きに思えて、私の声は控え目だった。 「珍しいなどということがあるだろうか。敢えて見るまでもないようなものだよ。取るに足らぬ連中だ。暁に生まれ、日没にはもう死に絶えるような、哀れな者どもだ」  それは数百年を生きた古木にとって、まさに瞬く間の出来事であろう。幾千幾万の日の出と日没を眺めて生きてきた、この老木にとっては。 「でも見たいのです。ここでしばらくご一緒させてください」  少々すねたような、ばつの悪い口調で言い、私はまた元の切り株に、どすんと腰を下ろした。 「もちろん、かまわんよ。儂は人間どもには一目置いておる。そなたが座っておるその切り株だが、古いものでな。かつては勢いづいて伸び、儂の枝葉を脅かしよった。しかし、ある日、一人の木樵がやってきて、家を造るに丁度良いと、そいつを切り倒していきよったのよ」  私は自分の尻の下にある、切り株に描かれた幾多の年輪を見下ろした。 「そこまで育つには何年もかかったが、木樵はたったの一日で、そいつを切り倒していきよった。早暁に現れ、日没にはもう、ぎしぎし、どすん!」  倒れ行く木の軋みがまざまざと蘇るような声で、老木は語った。私にはその時の枝葉のざわめきが、見えるようだった。 「一巻の終わりよ。切り分けられて、牽《ひ》かれて行きよった。お陰で儂はまたこうして、陽の光を思うぞんぶんに浴びることができる」 「あなたのほうが切られなくてよかったですね」  いくらかの皮肉を込めて、私は言った。隣人の不運を気味良く思っているらしい古木に、あてこすりを籠めて。 「儂を切りはせんよ。斧で打ち倒すには大きすぎる。それに、ここらの人間は、古びて口を利くようになった古木には、敬意を払うておる」  ふっふっふっと、木は笑い、饒舌そうな口調だった。  敬意は払うものの、人々はここへ日参しているわけではないらしい。退屈しきった老翁が、久々の会話に有頂天になっているような、そんな気配が漂っていた。 「妖精はいつごろ羽化するのでしょうか」  いつまで私はこのお喋りに付き合わされるのでしょうか。私はそう訊ねたのかもしれない。 「もう、今にもである……」  古木がそう教えた。  森の枝葉の合間から、唐突に強い一条の朝日が、沼を指し貫くように差し込んできた。地平線を離れた暁の太陽が、この森の空き地の中へと、新しい一日の始まりを告げに来たようだった。  それを合図に、羽化は一斉に始まった。  揺れる草に取りついていた、薄黄色い繭が弾け、びりびりと押し開くようにして、薄く透ける羽《はね》を持った背が、そこかしこで現れだした。  妖精たちはまさしく、妖精として期待されるとおりの姿をしていた。  細くなよやかな白い手足。まだ萎えたままだが、乾いて拡がればきっと、極北のオーロラのごとき色合いを備えた、薄い薄い箔《はく》のような透明な羽《はね》。そして金髪や銀髪、黒髪や赤毛などの、どれも美しい長い髪を垂らし、その容貌は夢見るような美貌ぞろいだった。  妖精たちは羽化の迷妄からまだ醒めきらぬ様子で、けだるげに古巣の繭《まゆ》に縋り付き、しおれた羽《はね》が陽光を浴びて、しだいに乾き、伸びてゆくのを待っている様子だった。  私は突然のこの光景に胸打たれ、あんぐりとしたまま沼のあたりを見渡していた。揺れる草にとりつく無数の美しい妖精たち。どれも掌《てのひら》に乗るような小さい者たちだが、それがゆえに繊細な手足を持った、精巧なガラス細工を見る時のような思いがした。 「美しい……」  感嘆して、私は思わずそう呟いていた。  古木がそれに、うっすらと笑ったようだった。 「それに、どれほどの意味があろう」  朝の光は、妖精たちの羽《はね》を、急激に乾かしていった。ひそやかに開き、幻想的な光をたたえた透明な羽《はね》が、華奢な背の肩胛骨のあたりから、絶妙の孤を描いて展開すると、妖精たちはふと目が醒めたように、とりついた繭から白い小さな体をめいいっぱいに伸び上がらせた。  風を待ち、その羽《はね》に孕むのに絶好の一吹きがやってきたとき、妖精たちは次々と舞い上がった。沼を覆う虹色の霞みのように、ぶうんと鋭い羽音をたてて、一斉に飛び、切り株に座る私の周りでも、生きて動き回る芸術品のような姿が、目の前を吹き過ぎる一陣のつむじ風のように、めまぐるしい速度で飛びかいはじめていた。  慌てて私は自分の頭をかばい、悲鳴をあげた。  情け容赦のない突進で、妖精たちは私がいるのもお構いなしに突っ込んできて、びしりと私の肩やら腰に激突し、時には彼らの繊細な腕や脚を折ったりもした。  そんな哀れな一匹二匹が、ふらふらと地に落ちるのに、私は最初は衝撃を受けたが、すぐにそれには慣れねばならなくなった。  途方もない数が羽化し、狭い沼の上をものすごい速度で飛び交っている。妖精同志が空中衝突し、息絶えたのか、はたまた気絶したのか、ふらふらと沼に落ちていき、それを待ちかまえていたような大きな魚が、沼から跳ねて彼らをまるごとひと呑みにするのや、草の陰から狙いを付けた、貂《てん》だか鼬《いたち》のような動物が、ぴょんと飛び上がって、ぱくりと一匹銜えていくのを見ると、生きるも死ぬも、遅かれ早かれの、運不運だった。  飛ぶのが下手で、どこかに衝突し、哀れにも命を落とす者もいれば、ぐんぐんと飛行の腕をあげ、暁の空高く飛び交う者もいた。手足を痛めて地に落ちて、泥にまみれた哀れな者たちは、きいきいと悲しい声で泣いていたが、私にはそれをどうしてやることもできない。連れて帰って手当してやろうというには、そういった者たちは、降る雪のようにばらばらと落ちてきた。そして、そう長く苦しむ暇もなく、どこからともなく走り出てきた獣や鳥の胃袋に、収まってしまうのが定めのようだった。  呆然と眺めるより他に仕方がない。  私はあんぐりとしたまま、飛行を会得した選り抜きの妖精たちが、ぐるぐると輪を描いて沼の上空を舞い始めるのを見上げた。  それは一曲の輪舞《ロンド》を踊っているかのようだった。  妖精たちは歌い、その声は微かだが美しい、幻想的な耳心地だった。  ある者はどこからか見つけてきた小花を身に飾り、ある者は細長い草を編んで、身に纏う衣装のようなものを作ったりもした。  優雅に舞い、歌を口ずさむ彼らは、ただ楽しげに遊んでいるだけのように思えたが、そうではなかった。彼らは支度をしているのだった。  婚姻の。  髪を結い、そこに花を飾り、草の繊維で裸体を包み、赤い草の実で化粧して、妖精たちはお互いを誘うような、甘い声で歌っていた。  彼らがすっかり身を飾るのに満足すると、ひとりふたりと、不思議な飛行を始めた。  それは支度が調ったという合図でもあったろうし、美しく着飾った身を皆に見せつけるための、そして、培った飛行技術を披露するための、複雑で困難な飛び交い方だった。  草葉の陰から、地に落ちた者たちが見上げる恨めしげな視線に見守られ、着飾った者たちは優雅に舞った。天高く飛び、時には濁った危険な水面すれすれまで急降下して、捕食者の潜む水を指先で掻き乱しながら飛んだ。  それは、勇敢であるという意味らしかった。  度々の急降下をし、大魚など恐れない根性を見せつけた者は、どうも、他のによくもてるようで、うっとりと羨望の眼差しを皆から受けているようなのだ。  我も負けじと、決死の急降下を試みる者は後を耐えず、中には実際、ぱくりとひと呑みにされる者も少なくなかった。  なぜそんな危険を冒して、急降下などするのか。  私ははらはらして見つめたが、妖精たちはそれをやめない。  やがて彼らは戯れあうように相手を求めて飛び、しだいに二人一組の群れへと別れていった。うっとりと甘く見つめ合い、草の上でひしと抱き合い、夢中になりすぎて、二人まとめて貂《てん》に食われる者もいた。  意中の相手が誰か他のに気をとられるのに怒り、殴り合いの喧嘩をする者もいた。  それは名誉をかけた争いごとなのかもしれないが、遠目に見るぶんには、綺麗な羽虫がキイキイ喚き、お互いを殴る蹴るして、時には傷つき羽《はね》を折られて、水面に落ちたり、地面に落ちたりするだけのことだった。  そうしてまた、魚や、鼬《いたち》や貂《てん》や、鳥の腹を満たす。  そんな騒々しい、すったもんだの挙げ句、彼らはお互いの相手を思い定めることにしたらしい。  気付くともう昼過ぎで、私は騒々しい沼のほとりで、宿でもらってきた弁当を食べた。  それはそれは気まずい食事だった。  座る切り株のすぐ傍でも、草の上に舞い降り、甘く囁き合う小さな恋人たちの姿があり、何を言っているかは全くわからないのに、その主旨は言語を越えて分かった。  たぶん雄《おす》なのだろうと思える小さいのが、ひそやかに囁くと、たぶん雌《めす》なのだなと思える小さいのが、恥ずかしげに身を捩る。それとそれとが手を取り合い、接吻などもして、ひしと抱き合い、そのうちおもむろに、やるべきことをやりはじめるのを、乾ききったパンなどを囓りながら、横目に見るともなく見るのは、極めて消化に悪かった。  妖精たちは、ちびっこい優雅な姿に似合わず、なかなかお盛んで、あの小さい頭で何を考えているのか、見ているこっちが驚くような様々なことを、誰はばからず次から次へとやっていた。  キイキイ喘ぐ声が沼に谺《こだま》し、震えるガラス細工のような手足が草葉の陰にのぞき、中にはそんな肝心要の真っ最中にも、無遠慮な鳥に啄《ついば》まれていく悲惨な一組もあった。  やがて怖ろしいことに、雌たちは相手の雄を、ばりばりと喰らい始めた。  私は自分がそうなる前に昼食を済ませておいたことを神に感謝した。  それはそれは凄惨な光景だった。女というのはなんと怖ろしい生き物かと、私は心底震え上がる羽目になった。  夕闇が迫ってくるころまでには、美しい顔をした小さな雌たちは、自らの恋人をすっかり食らいつくしたようで、辺りに飛び交う妖精たちの姿は、ずいぶんと少なくなっていた。早暁に見た、沼を覆い尽くすような群れではない。  ずいぶん死んだものだと、私はぼんやりと思った。  暁の光の中で、美しく生まれ、夕闇のころにはもう、生き残った妖精たちの羽《はね》は、傷ついて疲れ、ぼろぼろになっていた。  それでも妖精の娘たちは、最後の力を振り絞り、卵を産むらしかった。  波打つ草の裏側にこもり、女たちはキイキイ苦しげに呻き、いつの間にか、白い腹をまんまると膨らますほどに作られていた卵を、ひとつひとつ別の場所に生み付けていった。  吹けば飛ぶような、芥子粒のごとき白い小さな卵だった。  産卵の途中に食われる者もいた。全て生みきれず、膨らんだ腹のまま力尽きて地に舞い落ちる者もいた。  しかし全てに成功を収めて、すっきりとまた元のからっぽの腹になるまで産みおおせた者も、結局は力尽きて倒れ、このご馳走の日の最後のデザートとして、魚や獣にその身を与えるだけのことだった。  キイキイと悲しい声がそこかしこからして、私の気は滅入った。  明け方に歌っていた美しい声や、気まずいような愛の囁きが、今では懐かしく思い出された。  全ては日が昇り、そして没するまでの、瞬く間の出来事で、私はずっと呆然として、切り株に腰掛けていただけだったのだ。  太陽はもう、再び地の底に身を隠そうとしていた。  それはまた昇り、そしてまた沈むだろうが、この黄昏時に死に絶える者たちはもう、再び昇る陽の光を見ることはないのだ。たった一度の暁と、そして夕焼けを眺めて終わる生涯で、そんな悲しい夕景も、生きた目で眺めることができたとしたら、この上もない幸運という、哀れな生き物たちだった。  虚しいものだと、私は思った。  だがそれは、我々人の子の生涯と、どう違うだろう。  生まれるそばから、あれに食われ、これに食われする。美しく飛び、愛を囁いたとして、それはほんの一時のことだ。後に残されるのは、疲れ果てた死のみ。全ては瞬く間の、ほんの一瞬のできごとだ。  それには何の意味があるのかと、私は思った。  そうして眺めた夕闇の、薄暗い草の波打つ水際に、それは舞い降りてきた。ふらふらと、力尽きたように。  妖精が、雄なのか雌なのか、私には実のところ良く分からない。舞い降りてきた一匹の妖精は、生まれついての裸体のままで、一糸も纏ってはいなかったが、性別は推し量れなかった。  それは微かに震えながら、切り株に座る私の膝の上に降り立った。 「……水をもらえませんか」  妖精が、人語で喋った。私はその事に度胆を抜かれた。  それにまた、あんぐりとして、私が黙っていると、傷だらけで泥まみれの妖精が、気まずそうに私の水筒を見やった。 「それ、もう、空っぽですか。街には井戸があるでしょう。あの水は格別です」  楡の古木も美味いと褒めた、近隣の街の湧き水だった。しかしそれは特別美味いわけでもなく、私に言わせれば、ただの水だった。 「少しなら、残っているよ」  帰り道のため、飲み干さずにおいた水筒の中身を、私は慌てて差し出した。妖精は、笑ったようだった。小さな美しい顔に、よく見ると、満面の笑みが拡がっていた。 「もらってもいいですか。もう、街まで飛ぶ力がありそうもないので」  私は頷き、水筒の中の水を自分の手の平にこぼして、妖精に飲ませてやった。私の手に縋り、その小さい生き物は、一心に水を飲んでいた。  肩を震わせて飲む、弱った様子を眺めると、私の心には傷ついた妖精への、愛着の情が湧いた。この一匹も、遠からず死ぬのかと思うと、哀れだった。 「美味いなあ。世界は本当に、広いなあ……。濁っていない水のある場所が、この世のどこかにあるなんて、誰も信じないでしょう」  満足げにいって、妖精はまた微笑んだが、すでにもう立ち上がる力が無いようだった。私はそれが、自分の膝の上で休むのを許した。 「皆もう死んでしまったんですね」  私の膝から、死屍累々の沼を見渡して、妖精は残念そうに言った。宵闇の迫る森からの風に、新しい卵をつけた草が、恨めしげに揺れていた。 「僕は今朝、繭からかえってすぐに、冒険の旅に出たのです。街がありました。あなたのような、大きな人たちが、そこには大勢住んでいて、素敵な音楽や歌があり、素晴らしい建物や、綺麗な水の湧く井戸もありました」  私は妖精の話に、黙って頷いた。確かにそうだった。  この妖精の沼の近隣の街には、井戸もあるし、旅回りの芸人がいて、歌を歌ったりもしていた。しかし寂れた大したことのない街で、とりたてて見所はなにもない。この妖精の沼のほかには何も。私にはそう思えていた。 「すごいなあ……本当にすごい。僕ももっと、長く生きて、もっと遠くの街を、見に行けたら、どんなにかいいだろう」  夢見るような調子で言う、妖精の声は弱く、顔色はいまにも事切れそうな土気色だった。乾いた唇で笑い、妖精はガラス細工のような大きな目で、私を見つめた。 「人間の言葉を、街でおぼえたんです。なかなかのもんでしょう。妖精はね……頭がいいのです。頭が……」  ぐったりとして、膝から転げ落ちそうになった妖精を、私は慌てて手で受け止めた。ひどく軽い体だった。 「なぜ皆も、いっしょに旅に出なかったんだろうなあ。こんなところで争って死んで、それで幸せでしょうか。僕は確かに、結婚相手もいない間抜けだけど、でも幸せでしたよ。僕より遠くまで飛んだ妖精は、後にも先にも、現れないと思います。後にも先にも……」  さしのべた私の手を、妖精は握り返したようだった。しかしあまりに小さいので、指先をひっかくような小さな指が、虫でもとまっているような感触を、私に与えただけだった。 「僕が好きだった女の子は、もう死んだでしょうか。僕の兄弟たちは。皆、どこへ行ってしまったんでしょうか」  鼬《いたち》か貂《てん》の腹の中へ。  実際、今にも事切れそうな私の手の中の妖精を狙って、草葉の陰に光る貂《てん》の目が覗いていた。妖精というのは、どうも、美味いらしかった。 「皆に僕の旅の話を、聞いてほしかったなあ……」  寂しげに言う妖精の声に、私の胸は打たれた。彼はその冒険譚を話すために、仲間のいるこの沼に戻ってきたようだった。  しかしもう、仲間達は消え、彼の一生も終わろうとしている。 「私で良ければ、話を聞くよ」  今にも消え入りそうに見える、弱った妖精に、私は励ます声で呼びかけた。  励ましたところで、彼が今夜のうちに死ぬことは、間違いがない。それは私にも分かったが、旅の勲氏《いさおし》を強請る私の声は、強く引き留める口調だった。  話を求められ、妖精はうっすらと、また笑ったようだった。今にも死が訪れようとしていた瞳に、また微かな輝きが戻り、確かに彼は、幸せそうに見えた。 「聞いてくれますか」  嬉しげに、掠れた声でそう答え、妖精は語り始めた。  街の民家の古い竈《かまど》にくゆる、煮炊きの薪《まき》の埋み火の、薄煙。赤ん坊の泣きわめく声。猫に追われて逃げまどう、午後の大冒険。荷車の馬の、尻にとまる蝿のぶつぶつ。忙しげな蜂の、ぶんぶんと飛び交う、うなり声。宿屋のおかみさんが女中の娘っこに怒鳴り散らす、恐ろしげな声。明日も明後日も生きていく者たちの、力強い、そして野放図な営み。  その退屈な話は、切々と、それがあたかも目新しい、素晴らしい世界の出来事であるかのように、妖精の口から紡がれた。  私はその小さな手と手を取り合って、ただ黙然と、時折の相づちをうちながら、ありふれた人間の世界の話を聞いていた。  そうするうちにも夜が更け、私はひどい虻《あぶ》の襲撃に晒されたが、それでも黙って我慢して、沼のほとりの切り株に腰掛け、しだいに朦朧としていく妖精の語り部の、長い旅の物語を聞いた。  やがて朝が来た。一条の暁光が、また昨日と同じように、沼のあるところへ差し込んできた。  もう新しい妖精は現れず、沼は静まりかえっていた。  そして私の手の中で、語り終えた妖精は事切れようとしていた。  彼の乾いたガラス細工のような目は、眩しげに、朝日を見つめた。 「二度目の朝だ……」  微笑む口調で、彼はそう言った。あたかもそれが奇蹟だというように。  確かにそれは奇蹟だった。沼にはもう、生きている妖精はいない。二度目の朝日を見つめた妖精は、後にも先にも彼一人なのかもしれなかった。 「それに、どれほどの意味があろう」  共に妖精の話を聞いていたはずの、楡《にれ》の古木が、ぽつりとそうこぼした。  妖精はそれに、何も答えなかった。  すでにもう、死んでいたからだ。  もともと軽かった彼の体は、命が抜け落ちると、乾ききった枯れ枝か、灰じみた燃えくずのように、なおいっそう軽く、今にも崩れ落ちて、一陣の風にも吹き散らかされる、ごみのようになった。 「哀れなやつよ。仲間はみな、務めを果たして死んだというのに、一人ふらふら遊び歩いて、命を無駄に費やすとは」  古木は嘆かわしそうに、死んだ妖精を罵っていた。 「こんな馬鹿者は、見たことがない。儂も長くこの沼のほとりに居るが、こんな大馬鹿者は初めてじゃ」  それになんの障りがあるだろう。妖精とは何の縁もゆかりもない、楡《にれ》の古木にとって。  私は手の平に、妖精の死骸を抱いたまま、切り株から立ち上がった。 「そろそろ行きます。虻《あぶ》にやられて、痛くて痒くてたまらない」  たぶん、ひどい形相になっているだろう、痒みのある顔を、袖でごしごし擦りつつ、私は楡《にれ》の木に挨拶をした。 「そなたも、とんだ大馬鹿者よ。虻《あぶ》蚊《か》のたかる夜の沼で、夜明かしするとは……」 「そうですね」  私は笑った。笑うと、腫れた顔が引き連れて、ひどく痛かった。 「でも、時にご老人、ひとつお尋ねしたいのだが、あなたはこの近隣の街の、美味い水が湧く井戸を、ご自身の目で見たことがおありですか」 「あるわけなかろう。儂は木なのだから。生まれついたこの場所から、動けるはずがあろうか」  そんな子供でも知っているようなことを聞く馬鹿と、古木は不思議そうに私を見た。私は笑って頷いた。 「確かにそうです。あなたは木だから、見たことがない。すぐ隣にある街の井戸も、民家の竈の煙も、赤ん坊の声も、知らないまま生きて、ここで死ぬ。そして二度目の朝日を見た妖精のことを、大馬鹿者よと笑いつづけるがいい。私はそうは、思いません。同じ旅に生きる者として、彼を尊敬する」  べらべらと熱く語って、私は可笑しく、そして悲しくなった。虻《あぶ》に食われた痘痕面《あばたづら》で、一体何を偉そうに、ご高説ぶちまけているのだろう。 「何を怒っているのだね?」  不思議そうに古木は私に尋ねた。私は黙って、首を横に振った。 「いいえ……ただ、こいつが死んだのが悲しくて。可哀想なやつでした。もしも貴方が来年の妖精と、話をすることがあったら、こんな変なやつがいたと、語り伝えてやってくれませんか。あなたが口を利く木で、心があるというのだったら、この先の百年をかけて、考えてみてはもらえませんか。こいつが幸せに生きて、よい旅をしたのだということを」  私が頼むと、木は目を瞬いた。 「旅というのは、そんなによいものか、旅の人」  不思議そうに、古木は尋ねた。私はそれに、深く頷いた。  すると楡《にれ》の木は、ふうむと唸った。心底感心したような声だった。 「それはそれは、儂もぜひ一度、どこかへ旅をしてみたいものだ」 「そうですね。いつか、どこか。機会がありましたら」  私はそう頷いて、どこかしら照れながら、その沼のほとりを辞した。  旅の道は続いていた。  死骸となった妖精の体を、どこに葬ったものか、私は困り、実は今もそのまま、彼を連れて旅をしている。  生まれた沼のほとりに葬ってやるべきかと、時折悩むこともあるが、彼の遺骸は腐りはしなかった。からからに乾いた抜け殻のようになって、今では白く色も抜けきった、粉々の砂のようになり、私の旅のお守りとして、どこぞの街で買い求めた、なんとかいう動物の革の袋の中にいる。  私は彼と、極北のオーロラを見た。野生の獣に追われて、命からがら逃げ延びたこともある。迷路の奥のオアシスの、白い砂岩の美しい街で、赤く染めた指先の美しい、黒い瞳の踊り子の、華麗な舞いを眺めたこともある。  世界は広いなと、私は時折彼に語りかけた。そうですねと、妖精の粉は答えはしないが、いつか充分に世界中を見て回ったら、あの沼へ帰ろうと思う。すっかり満足した彼が、故郷を懐かしく思い描くころ、あの古びた沼へと、彼の魂を返しに。  それまでは、妖精と私の二人連れの、長い旅が続くのだ。  まだ見ぬ道がある。道無き道が。私は今も、歩き続けている。
──完──