006:神々の血族

 
 シュレーは自分の手紙に署名を入れ、純白の羽根でできたペンを置いた。流れるような神聖文字で埋められた羊皮紙の上端には、金箔で白羽の紋章が描かれている。黒檀の机に置かれたランプが照らし出した宛名は、神聖神殿の主である大神官、シュレーの祖父の名だった。  手紙を封印するために、シュレーはランプの覆いを開き、血のように赤いロウを炎にかざして溶かした。滴り落ちる赤い滴を丸めた羊皮紙の継ぎ目に垂らし、そこに右手の人差し指にはめた金の指輪を押しつけると、それぞれの皿に羽根と心臓をのせた天秤の図柄が写し取られた。それは『静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)』と呼ばれる官職を象徴する意匠であり、また、彼自身を示す紋章でもある。  シュレーは慣れた手つきで机の端に置かれた銀のベルを取り、それを軽く振った。硬質な音が響いて少したつと、いつものように部屋の扉が開き、学院が用意した山エルフの執事が現れた。銀に近いブロンドをした、シュレーよりいくらか年上なだけの、まだ若い男だった。  「お呼びでございますか、猊下(げいか)」  深々と礼をして、銀髪の執事は言った。 「ご苦労だが、この書状を神殿へ送ってくれ」  ロウで封印した羊皮紙の筒を差し出し、シュレーは言った。身に付けているのは、絹のシャツに革のチュニックを重ねた、ごく普通の学院の制服だが、シュレーの立ち居振る舞いには、神殿の神官が見せる独特の所作が見えかくれしている。 「聖楼城へでございますね」  シュレーを畏れている様子で、執事はおずおずと答えた。数ある神聖神殿の中でも、大神官が居住する正神殿のことを、民は聖楼城と呼んで信仰の対象にしている。それは大陸最古の神殿であり、大陸全土に拡がった神殿による支配の要である。  シュレーは頷いて、封印した書簡を執事に手渡した。  「お食事はどうなさいますか。料理番が、何をお持ちすればよいかと申しておりました」  執事が尋ねると、シュレーは淡い緑色の目に、困ったような表情を浮かべて言いよどんだ。無意識に首を倒すのは、考え込む時の彼の癖だ。肩のあたりで切りそろえられたシュレーの細い金髪が流れ、前髪の間から、額の赤い刻印が現れた。それは、神殿の一族であることを示すため、大神官が自らの一族につける深紅の小さな点だ。  神籍を示す刻印を直視するのを恐れているのか、執事は深々と頭を下げ、視線をそらせた。  「この学院では、学生はみな、共同の食堂を使って食事をすると聞いていたのだが」  気のない様子で、シュレーは言った。試しに聞いてみるだけだという風情だ。執事は畏まって、ますます深い礼をした。 「左様でございます。ですが猊下のお食事は、特別にお部屋までお運びするようにと……」 「神殿からの命令だな」  ため息とともに、シュレーが執事の言葉を遮った。 「左様でございます」  高貴な主人が不機嫌なのを感じて、執事の声が震えている。 「いい機会だから言っておくが、私は神籍を返上した身だ。神殿とはもう何の関わりもない。だから、他の学生と同じように扱ってくれれば充分だ。憶えておいて欲しい」  穏やかに説いて聞かせるような口調で、シュレーは執事に言った。しかし、山エルフの執事が畏まったまま怯えているのを見て、シュレーの顔にうっすらと苦笑が浮かぶ。  「食堂の場所を教えてくれれば、私は自分で行くよ、アザール」  執事に歩みより、シュレーは震えている山エルフの肩をぽんぽんと叩いた。驚いた執事が顔を上げ、おそろしい怪物と出会ったかのように飛び退く。 「私の名をなぜご存知なのですか」 「最初に会ったとき、君が名乗ったんだ。忘れたのか?」 「で……ですが…私のような者の名前を、憶えていていただけるとは夢にも…」  執事は相変わらず、小刻みに震えていた。どうやら感動に打ちふるえているらしかった。シュレーはまた苦笑した。 「長い名前に慣れているものでね。君の名前は憶えやすくていい。長すぎて会話の時に舌を噛みそうになる心配もない」 「ありがとうございます」  誉められているわけではないが、執事にはそれがわからない様子だ。  くり返し礼を言い、バッタのように頭をさげつづける執事を、シュレーは苦労して落ちつかせた。聞き出したいのは単純なことなのだ。  「そろそろ食堂の場所を教えてくれないか、アザール。食事をしたいんだ」  木漏れ日のように穏やかな微笑を浮かべ、シュレーは執事アザールに言った。 「ご…ご案内いたします、はい、少々お待ちを! 一番良い料理を出す食堂を、すぐに調べて参ります!」  裏がえった声で言い、執事は旋風のように部屋を出ていってしまった。  しばらく呆気にとられていたシュレーは、やがて肩を落としてため息をついた。こめかみに長い指をもっていき、頭痛をこらえるために強く押す。 「手紙を忘れてるぞ、アザール」  独り言を言い、シュレーは床に落ちている羊皮紙の筒を拾い上げた。アザールが驚いたときに取り落としたのだろう。  シュレーを食堂に連れていくよりも、神殿の紋章が入った手紙を床に落とす方が、よほど罪が重いのだが、シュレーはそれを哀れな執事には黙っていてやることにした。
 
 
「こちらが、一番良い料理を出す食堂だと、料理番が申しておりました。もっとも、その料理番が任されている食堂がここでございますから、猊下には毎日ここの厨房でおつくりしたものをお出ししておりました」  息継ぎを忘れて喋ったアザールは、なんとか全部言い終えたものの、むせかえるのを隠すために必死の形相になった。  いくつもの階段を登り降りして案内された先には、黒檀の大扉があった。学院には、いくつかの食堂が用意されており、学生は気に入った店で食事をすることが許されているらしい。扉の中には、学院で学ぶ山エルフたちが大勢いるのだろう。  アザールから目をそらし、シュレーは笑いをこらえた。学院も、飽きない執事を選んだものだ。おそらく、このアザールという若者は、別段間が抜けているわけではないのだろうが、シュレーに気を遣うあまり、ときどき挙動がおかしくなる。自分よりいくらも年下の子供とはいえ、相手が高貴なる神殿の血筋を引いていると気負いすぎているのだろう。  「あとは一人でなんとかなるよ、アザール。案内ご苦労だった」 「扉をお開けいたします」  あたふたと先回りして、アザールは黒檀の大扉に手をかけた。扉ぐらい自分で開けられると思ったが、シュレーはアザールのしたいようにさせてやることにした。その方が話が早そうに思えたのだ。  かすかな軋みを立てて、扉は開いた。すると、中から猛獣でも暴れ出したような、激しい悲鳴と怒号が聞こえる。あまりの意外な出来事に、アザールは扉の取っ手を握ったまま立ち尽くしている。  幾何学模様で飾られた大理石の広間は、怒鳴り声をあげる山エルフでごったがえしていた。腕をふりあげて何かをどなりちらしている山エルフたちの手には、刃渡りの狭い刺突用の剣がきらめいている。テーブルは無惨にひっくり返り、料理を載せた皿が踏み砕かれて床に散らばっていた。  「喧嘩だな」  広間の混乱を眺めながら、物怖じしない口調でシュレーは呟いた。  突然、人垣を割って現れた何かが、シュレーのいる扉のすぐ横の壁に叩きつけられた。見れば、すっかり気を失った山エルフの少年だ。握りしめた細身の剣は根本で折れ、刀身を失っている。泡を吹いている少年の横に膝をつき、シュレーは鼻血で汚れた山エルフの横面を叩いた。  「だめだな、本当にのびてる」  首を振って、シュレーは言った。命に別状はなさそうだが、かなり打ちのめされた様子だ。  山エルフは気位が高く、ささいなもめ事から決闘に及ぶことも珍しくないというが、気位が高い分だけ引き際も心得ているとシュレーは聞いていた。つまり、完膚無きまで叩きのめしてしまうと、負けた相手はその不名誉を雪ぐため、さらなる復讐を用意して、再度の決闘を挑んでくる。だから、どちらが勝ったのか判別がつかない程度でやめておくのが、正しい決闘の作法だと。しかし、ここまでみっともなく負けてしまった場合、どう対処するのが作法なのやら。  「次はお前か」  憎悪のこもった声で呼びかけられ、シュレーは顔をあげた。  頬を返り血で赤黒く染めた黒エルフが、シュレーを見おろして笑っていた。結い上げていた長い黒髪が崩れ、砂漠風の長衣を着た背中を覆っている。豪奢なその衣装には、所々、細身の剣でかすめられた鉤裂きができている。嬉しげな微笑に歪んだ唇が血で染まっているように赤く、重たげな睫で縁取られた目は、狂ったように光っている。綺麗な顔だと、シュレーは空事のように思い、黒エルフの顔を見上げた。  「げ…猊下(げいか)! もどりましょう…!」  動転したアザールがじたばたしている。その声を聞いたとたん、黒エルフの顔からぬぐい去るように微笑が消えた。 「猊下……?」  一歩進み出て、黒エルフはシュレーの顔をじっと見つめてくる。 「シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス……」  呪文のように黒エルフが呟いているのが、自分の古い名だというのに、シュレーは一瞬気づけなかった。  「無礼者…! 猊下のお名前を呼び捨てにするなど……!!」  激昂したアザールが、黒エルフに食ってかかろうとしたが、その手が黒エルフの衣服に触れようとした瞬間、哀れな執事の体がありもしない風にあおられるように浮き上がり、勢い良く壁にたたきつけられた。  「アザール!」  驚いて、シュレーは気を失って倒れた執事に目をやった。  「目を逸らすな、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス。そいつは気を失ってるだけだ」  ぴしゃりと叱りつけるように、黒エルフは言った。金色に輝いている黒エルフの目を、シュレーはまっすぐに見つめ返した。  シュレーの名を呼び捨てにするのを許されているのは、祖父である大神官だけだ。しかし、それをとがめ立てする気が起こらないのは、目の前にいる黒エルフが何かに憑かれたような目でシュレーを見ているからだ。  「お前がそうか」  黒エルフは、にやっと笑って、唇についた血を舐め取った。まるで砂漠の悪鬼のようだ。  「スィグル!」  人垣の向こうから、誰かがこちらに向かって呼びかけている。一瞬、シュレーはそれが目の前の黒エルフの名かと思ったが、美貌の黒エルフはその声を無視した。 「馬鹿野郎、ぼんやりするな! 後ろがガラ空きだぞ、スィグル!!」  怒ったような声が立て続けに警告すると、黒エルフは初めてハッとして振り返った。  黒エルフに向かって、剣を振りかぶる人影が見えた。黒エルフが丸腰なのに気づき、シュレーはとっさに腰に帯びた剣を抜いていた。しかし、割ってはいるには、間合いが遠すぎる。  黒エルフをしとめようと現れた少年は、力任せに剣を振りかぶり、黒エルフの腹をめがけて振り下ろした。絹の長衣に包まれた黒エルフの体に剣が食い込む瞬間、何かが破裂する音とともに剣が折れ、それと同時に、黒エルフの体もはねとばされて、そばの壁に激しく叩きつけられた。  「やった…しとめたぞ!」  剣が折れた反動で床に転がっていた山エルフが、歓喜の声をあげた。  抜き身のままの剣を床に転がして、シュレーはぐったりしている黒エルフを助け起こした。剣が狙っていた脇腹には傷がないようだが、黒エルフは気を失っているようだ。目を閉じていると、少女のようにも見える整った顔立ちをしているせいか、頬を叩くのも気が退けて、シュレーは仕方なく、黒エルフの肩を揺すってみた。しかし、黒エルフは苦しそうに瞼を震わせるだけで、意識を取り戻す気配がない。  自分を睨みつけていた時は、悪鬼のようだと思えた黒エルフが、布越しにもはっきりわかるほど痩せた体格をしているのに気づき、シュレーは気を失っている黒エルフに同情を感じた。理由はわからないにしても、なぜ大勢を相手に喧嘩などしなければならないのか。  「ざまあみろだ……黒系種族め」  勝ち誇った笑い声が、シュレーの神経に障った。振り向くと、黒エルフに斬りかかっていた少年が、いかにも気味良さそうに腹を抱えている。 「丸腰の相手に斬りかかるのが、お前達の礼儀か?」  むっとして言い、シュレーは剣を拾って立ち上がった。ささいなことでも決闘に及ぶ山エルフの血が、自分にも半分流れているらしいなと、シュレーは内心で思った。だからといって、血の命じるままに剣をとるのに、今はさほど、ためらいを感じなかった。  驚いたように山エルフがこちらを見る。しかし、卑怯者は二度驚いた。シュレーの背後に何かを見ている。  「お前、いいこと言うぜ」  シュレーが振り返ると、肩で息をつぎながら、褐色の肌の少年が立っていた。深い青の瞳。海エルフだ。いつの間に現れたのか気配がなかったが、その声には聞き覚えがある。つい先刻、黒エルフの名を呼んでいた声だ。  左手に握っていた見事な長剣を、海エルフの少年は丁寧に鞘におさめた。そして、床にへたり込んでいる山エルフに歩み寄ると、絹のシャツの胸ぐらをつかんで引き上げ、立ち上がらせる。  「いかれたヤツだが、あれでも同室のよしみがある。悪いが手加減しないぜ」  真面目腐って宣告し、海エルフは山エルフの少年のこめかみを強かに殴った。激しくよろめいて、再び床に倒れ込んだ山エルフは、白目をむいてのびていた。  対戦者を殴った左手の具合を調べるように小さく振り、海エルフはシュレーの方に向き直った。シュレーの方が上背があるが、褐色の肌の少年は、いかにも戦闘民族の戦士に成長しそうな、均整のとれた体つきをしている。  「左利きなのか」  感心して、シュレーは場違いに穏やかな口調で言った。 「父親ゆずりだ」  薄く笑って、海エルフは答えた。額に銀の輪を締めている。エルフ族では確か、部族長の一族であることを示すために、こういった額冠(ティアラ)をつける習慣だったはずだ。 「そうか。君は『左利きのヘンリック』の息子なんだな」  微笑して、海エルフは右手をシュレーに差し出した。 「白系種族に味方してもらえるとは意外だった。礼を言うよ」 「なんだ?」  差し出された手の意味がわからず、シュレーは戸惑った。 「右手を握りあうんだ。黒エルフの習慣で、信頼を示すための挨拶らしい。そこでのびてるヤツから教えてもらったんだ」  倒れている黒エルフのほうを顎で示し、海エルフの少年は言った。 「結局なにもしなかった。感謝される理由が何もないが…」 「丸腰の相手に剣で斬りかかるのは、卑怯者のすることだ。俺の故郷でも、みんなそう思ってる。お前の言うことは正しい。気に入ったよ」  シュレーは微笑して、海エルフの右手を握った。 「でもな、ひとつ忠告しておくよ。あいつが丸腰だなんて思うな。痛い目にあわされるぞ」  意味ありげに深々とため息をつき、海エルフは気絶している黒エルフに向き直った。 「あいつ、手当してやらなきゃだめなんだろうな」 「部屋に戻れば簡単な手当くらいできるが、どうする」  シュレーが提案すると、海エルフは不思議そうな顔をした。 「医術の心得でもあるのか」 「…神殿仕込みなんだ」  海エルフがじっと自分の顔を見るので、シュレーはなぜか、額の刻印が隠れているといいと思った。シュレーの素性を知って、この海エルフが執事のアザールのように畏れおののいてへりくだるのを見たくない気がしたのだ。  不意に、大きなベルの音が近づいてくる気配がした。海エルフがいぶかしげに顔をあげる。  「教官だ。騒ぎを聞きつけてやって来たんだろう」  シュレーは耳をすまして、階段から響いてくる音の距離をはかった。空洞に反響して大きく聞こえてはいるが、まだいくらか遠い。  「出くわさない方がいい。学内での決闘は禁じられている」  決闘に走りやすい学生たちを戒める数々の掟を、シュレーは思い浮かべた。だが、それを説明するまでもなく、海エルフは状況を察したようだ。  「ともかく…悪いけど世話になるぜ。もめ事はまずいんだ」  乱れた褐色の髪をなでつけながら、海エルフは苦虫を噛み潰したような顔をした。 「人質だから」  シュレーは小声で答えた。 「まあ…今さら何を気にしたところで、意味がないかもしれないけどな」 「これだけ派手な騒ぎになるとね。でも、気にすることはないよ。大勢で君たち二人を叩きのめそうとするなんて、卑怯なやり方だ」 「ああ、それについては……後で説明するよ。あいつを運んでから」  悪夢を振り払うように首をふり、海エルフは相棒のそばに歩み寄っていった。  「行こう」  黒檀の扉を開いて、シュレーは相棒を軽々と抱えあげた海エルフを振り返った。