019:月と星の船
部屋に戻ると、イルスは物思いに沈んだ風に、居間の窓から学院を囲む針葉樹の森を見おろした。山エルフ風の家具と敷物があるだけの、質素な室内には、灯心を焦がしてゆらめくランプの灯だけがともっていて、いっそ月明かりのある屋外の方が明るいように思えた。
竜(ドラグーン)の哭く声だという、例の音は、まだ時折思い出したように続いていた。防壁のあたりで聞いたほどの大きさではないが、耳をすますと、夜気を震わせて響くかすかな声が、風に乗ってやってくる。本当にこれは竜(ドラグーン)の声なのだろうかと、スィグルは考えるともなく、おとぎ話の中から現れた生き物の存在について思い巡らせた。
「竜(ドラグーン)はこの世界で一番古い血を持つ生き物で、この世の始まりから終わりまでのことを、何もかも知っているって言うよな」
外の景色を眺めたまま、イルスが話しかけてきた。長椅子に座りかけていたスィグルは、イルスの言葉を聞いて、立ち止まり、海エルフの少年の後ろ姿を眺めた。淡い緑のシャツに、濃い茶の短衣(チュニック)を合わせた、山エルフ風の制服は、彼にはあまり似合っていなかった。おそらく自分にも、この制服は少しも似合わないのだろう。スィグルはさっさと自分の部族の衣装に着替えたかったが、イルスは誰かと話したがってるように見えた。あきらめて、スィグルは窓辺に歩み寄った。
「竜のことは良く知らないよ」
月明かりに照らされた森を見おろし、スィグルはぼんやりと答えた。イルスが話したがっている話題は、別のことのように思えた。
「あいつは本当に竜(ドラグーン)の末裔かもしれないな。何でも知ってて、本心がわからない。まるで竜みたいだ。俺たちとは、どこか、まるっきり違うところがある気がする」
窓枠に肘をつき、イルスは身を乗り出すようにして、学寮の真下の地面を見おろしている。
「あいつっていうのは、シュレー・ライラルのことかい」
「ああ」
スィグルは、今は額冠(ティアラ)で隠されているイルスの額に、無意識に目をやっていた。どちらかといえば、イルスの方がよほど竜(ドラグーン)に縁があるように思えた。神殿が彼に与えた洗礼名は、フォルデス、竜の心を知る者の意味だという。そのイルスが、竜の心はまったく分からないと言う。スィグルはそれが、なにやらおかしいような気がして、静かな笑いに唇を歪めた。
「そうかな。僕には、だんだん分かってきたけど?」
スィグルがもっともらしく言うと、イルスが珍しくにやりと笑った。
「さすがは永遠の友情を誓っただけのことはあるな」
「そんなもの誓った憶えはないよ。僕が約束したのは、あのご大層な翼をちょん切ってやるって事だけさ」
くすくすと笑いながら、スィグルは答えた。
「スィグル、お前は本当に、あいつの翼を切り落としてやるのか?」
イルスは、スィグルにそれを思いとどまらせたい様子だった。イルスはきっと、シュレーの政治的な立場云々よりも、純粋にあの白い翼を惜しんでいるのだろう。
「あんなもんでも、切れば血がでるのかな。やっぱり痛いんだと思う?」
意地悪く、冗談めかしてスィグルは言った。イルスが露骨に顔をしかめる。
「それは…腕や脚を切るのと同じじゃないのか。痛くも痒くもないようなものだったら、あいつ、もう自分で切り落としてそうだ」
「それは言い得た話だね。さすがの猊下(げいか)も、痛いのは怖いってことかな。先にイルスに頼むあたり、どうせ痛い目みなきゃならないなら、せめて一刀で落としてほしいって思ってるのが見え見えだよね」
小気味よい気分で、スィグルは喉を鳴らして笑った。イルスがそれを咎めるような視線を、こちらに向けた。
「お前な、ほんとに悪趣味だぞ。他人の痛みに無頓着っていうか…面白がってるだろ?」
「…そうかもしれない。昔はもっと違ったんだけどね。世の中があんまり僕の痛みに無頓着だから、それに復讐したいのかもしれない」
イルスをからかうつもりで言った言葉に、スィグルは自分の胸を打たれた。確かにそうだと思った。単に自分は腹いせをしたいだけなのだろう。イルスがうっすらと顔をしかめ、憐れみに似た表情を浮かべるのを見て、スィグルは複雑な気分だった。
こういう目で見られたくないと思って、イルスには何も教えないつもりにしていたのに、結局、他人の口から何もかも暴露されてしまうというのは、格好のつかない話だ。
だが、シュレーが言うように、こうやって同情されるのは、なかなか心地のいいものだった。そう思っている自分に、スィグルは呆れた。
「イルス…君は、死ぬことに意味があるなら、潔く命を捨てる覚悟みたいだけど、僕にはそんなことはできない。命が惜しいんだ。死ぬのは怖い。僕が生き続ける事には何の意味もなくて、今ここで死ねば沢山の人の役に立てるってわかってても、僕はきっと、自分の命を惜しいと思っちゃうんだよ」
湿った暗闇の中で、自分の死から逃げ回っていた時のように。スィグルは、すぐにも甦りそうになる恐怖の記憶を、心の底に押し込めるため、一呼吸した。
「どうやったら、君みたいになれるんだろうね。死を恐れないように…」
イルスの青い目を覗き込んで、スィグルは本心から尋ねた。イルスがその問いの答えを知っているような気がしたのだ。だが、海エルフの少年はあっさりと首を横に振った。
「俺も死ぬのは怖い」
軽い驚きのため、スィグルは一瞬、沈黙した。
「じゃあ、どうして生き延びる方法を考えないの。予言の通りに死んでも構わないなんて、矛盾してると思うけど」
「…そうだな。うまく説明できないけど……将来、自分が何のために死ぬことになるのかなんて、今は想像もつかないだろ。でも、もし、それが命に代えても守りたいと思うもののためなんだったら、それはそれで満足のような気がするんだ。満足して死ねるんだったら、俺は、それも悪くないかなと思う」
イルスの言いたがっている事は、なんとなく理解できる気がした。スィグルは伏目がちになって夜空を見上げた。
「自分の命より大切だと思えるものを持ってるっていうだけでも、特別なことなんじゃないかな。僕には、そんなものはないよ。いつだって自分がいちばん大事なんだ。そうじゃないって思おうとした時もあるけど、でも僕は、追い詰められると、いつも、どうやったら自分がうまく生き延びられるかばかり考えてしまうんだよ」
森の墓穴の中でも、ずっとそうだった。自分に都合のいい事ばかり考えて、目の当たりにしたくない事からは目を背けようとしていた。数知れない美しい言い訳を考えたところで、自分自身の卑怯さを誤魔化しきれるはずもない。
スィグルが微かなため息をつくと、イルスが窓枠に頬杖をつき、ぽつりと言った。
「師匠が、答えを急ぐなと言っていた。この世に生まれ落ちたばかりの小僧に、死の意味などわかるものかってな。俺が死ぬ日までは、まだ時間があるみたいだから、それまでに答えを出すよ。考えようによっては、この先何年かは生きてるっていう保証があるぶん、明日どうなるわからないより、マシなのかもしれないしな。お前にだって時間はあるだろ。しばらく考えてみたら、案外、それなりの答えが見つかるかもしれないぞ」
「なんで、そんなに前向きなのさ」
感心して、スィグルは言った。ほめたつもりだったのだが、イルスはなぜか苦笑した。
「後ろ向きだと、俺にはツイてないことが多すぎて、惨めな気分になるからだ」
「そういう事なら、僕もそうだな。ここ数年、ろくな事がなかったよ」
イルスの苦笑の意味がわかって、スィグルも思わず苦笑いした。
イルスが不意に肩を落として、スィグルに向き直った。
「殴ったのは悪かったと思ってる。行き過ぎだった。すまない。お前のこと、何も知らなくて、無神経だった」
イルスが頭を下げるのを、スィグルは呆気にとられたまま見送った。
「よ、よしなよ、王族はそんな簡単に頭を下げるもんじゃないって習わなかったの!?」
ハッとして、スィグルはイルスをとがめた。顔を上げたイルスは、困惑の表情を浮かべていた。
「明日の自分に今日のことを恥じないように生きることが大切だと師匠には教えられたけど、俺は毎日、後悔ばかりしてる」
目を細めて、スィグルはイルスの顔を見た。
「……いいよ。イルスが悪いわけじゃない。僕も、どうしたらいいか分からないんだ。ごめん…もうしないよ」
うなだれて、スィグルは詫びた。イルスと話していると、自分が何をそんなに憎んでいるのかさえ、分からなくなりそうな気がして、スィグルは急に情けない気分になった。
イルスから目をそらして、スィグルは窓枠に頬杖をついた。そして、恐ろしい暗闇のことや、イルスの額に埋まっている「竜の涙」のこと、シュレーの白い翼のことなどを、脈絡もなく次々と回想した。
「シェルを許してやる気はないか?」
イルスがぽつりと尋ねてきた。少し考え込んでから、スィグルは首を横に振った。言い淀んでいた間に、自分が何を考えていたのか、スィグル自身にもわからなかった。今夜のことがなければ、そんな気はないねと即答できただろうと思うと、スィグルは複雑な気分だった。
僕のせいじゃないのにと泣きわめいていたシェルの顔が、スィグルの脳裏に浮かんだ。たぶん、その気持ちを一番深く理解できるのは、自分のような気がした。
スィグルも、僕のせいじゃないのにと、泣き叫んだことがあった。森の地下の暗闇の中で。でも、それを聞いてくれた者は一人もいなかった。だから、シェルの慟哭を聞いてやる義理はない。他にいくらでも、シェルの言い分を聞いてくれる者がいるだろう。そいつらに慰めてもらえばいい。それが自分である必要などないと、スィグルは何度も繰り返し考えた。そんな必要など、どこにもない。
スィグルが夜空を見上げると、真北の空に、微動だにしない『母なる星(パスハ)』が青白い輝きを放っていた。
「あの星のこと、どうして『母なる星』って呼んでるのか話してもいいかい?」
考えもしなかった言葉が、スィグルの口を衝いて出た。イルスが頷くのを見て、スィグルは不思議な気分だった。自分はなぜ、そんなことを話したがっているのだろうかと、不思議だったのだ。
「僕の部族に伝わる古い言い伝えでは…この世界の生き物はみんな、あの星からやってきたんだ。月と星を巡る船に乗って…」
子供の頃、なんども聞いた物語を、スィグルは耳元に母の語る声が聞こえるほど鮮明に思い出していた。
「いつか僕らは、月と星の船に乗って、パスハに帰る。麗しの故郷へ。僕らをこの世界に連れてきたその船は、今も、この世界のどこかにあるんだよ。僕らはみんな、その船が運んできた、同じひとつの種から生まれた兄弟だったんだ」
恐らく、彼が初めて耳にするだろう、その話を、イルスは不思議そうに聞いている。砂漠の部族は、神聖神殿が大陸全土を支配する以前から、この物語を口伝てに伝えてきたのだ。母が枕辺で、いつまでも眠つかない子供のために、語って聞かせる寝物語として。
「白い卵も、黒い卵も、僕らの部族の言い伝えにはない。そんなもの、はじめから無ければよかったんだよね。もしそうだったら、誰も僕らのことを、卑しい部族だなんて言わないよ。だって…本当に何も違わないんだから。ほんの少し、見た目が違ってるだけだもん」
「…そうだな」
イルスがひっそりと答えた。天上の『母なる星(パスハ)』はとても小さく、しかし明るく輝いていた。
「僕は、大人になったら、月と星の船を探しだそうと思ってた。そうすれば、僕らが同じ種から生まれたんだって、みんなが納得してくれるんじゃないかと思ったんだ」
タンジールの王宮深くで温々と暮らしていた子供の頃を思い、スィグルは泣き出しそうな気分だった。月と星の船を探すと言うと、母上はいつも困ったように笑って、あまり遠くに行ってはいやよ、スィグル、と言い、瞼に接吻してくれた。髪を撫でてくれた母上の白い手には、ちゃんと指が全部そろっていた。指輪をはめた、細くて綺麗な指が5本ずつ。つややかに磨かれた爪には花の文様が描かれていて、いつも、擦り込まれた香油の甘い匂いを漂わせていた。
「でも…きっともう、僕には船を見つけられないと思う。そんなものが、どこかに本当にあるって事を、信じられなくなったんだ」
スィグルの背中の古傷が、じくじくと痛んだ。スィグルは、パスハを見上げるのをやめた。
「僕にその話をしてくれた母上だって、もう、そんなことは信じていないと思う」
スィグルは、うつむいて、眼下の森を見おろした。微かに光るものが、針葉樹の森に向かっていくつも落ちていくのが見えた。耳飾りでも壊れてしまったのかと思ってから、スィグルはやっと、それが自分の涙だと気付いた。
かすかな光の粒は、降り注ぐ雨のように、ポタポタと次々に落ちていった。森の穴蔵から救い出された時も、タンジールの夕陽を再び目にした時も、決して溢れ出るこのとなかった涙が、なぜか急に、スィグルの目からこぼれ落ちていた。
「…僕があいつらを許したら、母上が可哀想だ」
こみ上げる嗚咽を堪えると、どうしようもなく息がつまった。窓枠にもたれて顔を覆い、スィグルは湧き上がってくるやり場のない感情を、やり過ごそうとした。
「母上も、スフィルも、僕も、蔑まれたり、なぶり殺されるために生まれてきたんじゃない。何も悪いことなんかしてない。なのに、あいつら、母上を酷い目に……。許せない。許せないよ。僕は、あいつらを許しちゃいけないんだ。許しちゃいけないんだ。母上も、スフィルも、もう幸せになれないのに、どうして僕だけが……無事に戻ってきて………」
思いを吐き出してしまうと、力が抜けて、スィグルはずるずるとその場に座り込んだ。泣きわめく子供と何も変わらなかった。喉を衝く嗚咽を押し殺すため、スィグルは顔を覆う手に力をこめた。
「どうして僕は……潔く死ねなかったんだろう。生き残っても、いいことなんか一つもない。かげで笑い者にされるだけなのに……どうして死ぬのを恐がったりしたんだろう。スフィルは何度も、死にたいって言ったんだ。でも僕は怖くて……」
イルスは何も答えなかったが、スィグルがそこにいる限り、いつまでも側を離れようとしなかった。スィグルと同じように、窓辺の床に脚を投げ出して座り、イルスはただ黙ったままで、そこにいた。
時折、竜(ドラグーン)が哭(な)く声が聞こえた。竜はいったい、何を哭(な)いているのだろうかとスィグルは思った。ただ嘆くほかにできることもない、無力な生き物のことを想うと、胸が締めつけられるようだった。
「お前が悪いんじゃない」
不意に、イルスがぽつりと言うのを聞いて、スィグルは顔をあげた。どれほどの時間が過ぎたのか、それとも、ほんの少ししか経っていないのか、分からなかった。
「船を探せよ。お前は、見つけられる」
独り言のように言うイルスの目は、どこか遠くをぼんやりと見ているようだった。
「お前が生きてるのは、そのためだ」
「イルス…」
涙の気配の残る声で、スィグルは横にいる海エルフの名を呼んだ。
「それから、今の話をみんなに教えてやれ」
自分の額冠(ティアラ)に触れて、イルスは目を閉じた。
「……未来視したの?」
スィグルが問いつめる口調になるのを聞いて、イルスは目を開き、にやっと笑った。
「いいや、当てずっぽうだよ」
笑いながら、イルスは言うが、それが嘘だということを、スィグルなぜか確信していた。イルスの額に埋まっている「竜(ドラグーン)の涙」は、今では額冠(ティアラ)に隠されていて、見ることができない。だが、それが今も、イルスの脳髄に根をはり、命を吸い上げていることを、スィグルは漠然と思った。
なぜイルスは海エルフなんかに生まれたのだろうかと、スィグルは悔しかった。砂漠に住む同族として生まれていれば、彼は、災いを呼ぶ者として一族から遠ざけられることもなく、偉大な魔法戦士として尊敬され、栄華を味わい、部族の戦史に名を残したかもしれないのに。魔法に無知な部族に生まれたばっかりに、謂れのない迷信を押しつけられ、その挙げ句、こんなところで、どうでもいような未来を視るために、命を無駄に削っている。
「あ…ありがとう…イルス」
小声で言い、スィグルは抱えた膝に顔を埋めた。イルスがおかしそうに笑う低い声が聞こえたが、なぜか、少しも腹が立たなかった。
- --- 第1幕 おわり ----