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「有翼一角獣《アリコーン》牧場」

1
森の中で一角獣《ユニコーン》を見た気がした。  ほの暗い森の奥に一瞬、輝くような白い馬体をした一角《ひとつの》の生き物が、きらめく残像を残して走り去るのを見たようだった。  私は目を擦《こす》り、自分の正気を確かめた。  見たか? 確かに?  そういう生き物がいるという噂を、旅の途中で聞いたことはあった。  何せ広い世界だ。この世のどこかに角を生やした馬がいて、魔法を撒き散らしながら駆け回っているのだと聞き、そうかもしれぬと思った。  それをぜひ自分の目でも見たいとやって来たくせに、いざ目にすると我が目を疑うとは。  臆病な私の疑念を咎《とが》めるように、一角獣《ユニコーン》はすぐ行方知れずになった。  追ったが見失ったのだ。  私は森の中で迷うのを恐れ、馬を追うことはやめて、日の落ちぬうちにと森を抜けるための細い道に戻った。  そこから歩いて小半刻《こはんとき》、牧場はあった。  あっけないほどの近さだった。
2
「泊まりたいだと?」  出会い頭に怒った声で、戸口に現れた牧場主は言った。  その初老の男は汗をかいており、やけに顔色が悪い。  最後にはいつ眠ったのかというような青白い顔色で、重そうに木戸を開けたごつごつした手も、まるで土塊《つちくれ》でできているような、暗くくすんだ色合いだ。 「そうです……あの……お代はお支払いします」  恐ろしい気配のする蓬髪《ほうはつ》の男に怯《ひる》み、私はおそらく効果のあるものと、そう提案した。  しかし男は怒った口調で一蹴《いっしゅう》してきた。 「くだらん! 金など……くそっ……」  滴るほどの汗を拭い、男は身を折って呻《うめ》いている。 「薬屋の使いじゃないんだな?」  震える怒声で問いただす男に、私は無言で頷いた。違うという意味だ。 「畜生め」  男はまた悪態をついた。  退散すべきか。  ここでこの男に一宿《いっしゅく》を求めるより、野宿のほうがましか。  家の中は荒れ果て、嫌な匂いがした。  炉には辛うじて火が燃えているが、掻き出されていない灰が野放図《のほうず》に溜まり放題だった。  男はすえた臭いを漂わせながら咳き込み、涎《よだれ》か何かわからぬものを僅かに床に吐いた。  退散しよう。そう決心して私の心がもう踵《きびす》を返した後に、私は男が咽《むせ》び泣いているのに気づいた。 「畜生……やっと有翼一角獣《アリコーン》が生まれるって時に……」  苦しげに泣く声で男は独語していた。 「死にたくねえ」  好奇心は猫をも殺すとも言う。  己の知りたい欲に私も殺されなければ良いが。  自分の少ない旅の荷物にある薬袋に、何か役立つものがあるかと思い巡らしながら、私は牧場主の家に踏み込んでいった。
3
旅の空には医者など滅多にいない。  それは街から離れたこの牧場でも同じことだ。  とは言え、街道からまだそう遠くはない場所に位置しているこの牧場には、月に一度ほど、市《いち》が立つのに合わせて馬を仕入れ、代金として物資を納めにくる商人の馬車が来るらしい。  市へ行くその馬車に牧場主が言伝《ことづて》をして、街の薬師《くすし》に薬を持ってこさせるよう頼んだのが何日か前のこと。  それから何日経ったのか正確には分からぬらしい。  いつだったかの夜に、急な腹痛に襲われた牧場主は苦しみ悶え、用意のあった虫下しやら痛み止めやらの薬を服み尽くした。  もともと平素《へいそ》から腹痛の気《け》があったそうで、常々、置き薬の備えはあったらしい。  しかしそれが効かぬようになり、薬箱の底が見えた。  もっと良い薬をよこせと人伝《ひとづて》に街の薬屋に怒鳴ったものの、一向に誰も来ない。  もう死ぬのだと思うと牧場主は語った。  私が分けてやった痛み止めの薬を服《の》んで、人心地ついた後のことだ。  旅の道中では急な怪我や病《やまい》もあるが、私は歩き続けなくてはならない。途上《とじょう》で伏せっても、野獣に食われるか野盗に襲われるかするだけだ。  どこかに辿り着くまでの繋ぎとして、手に入る時に薬は確保してある。  一宿《いっしゅく》の恩に支払うにしては少々値が合わない高価な薬だったが、致し方なかった。  丸薬《がんやく》は既にもう牧場主の腹の中に入ってしまったのだから。 「よく効く薬だな……」  まだぐったりとして、薄汚い寝床で汗をかいている男は言った。  そこはかとなく感謝が感じられぬこともないような声だった。 「そうそう無いものですよ。この辺りには無い薬と思います。遠くの山奥の村で分けてもらったんです。タダでじゃないですけどね」  含みを持たせて教えると、牧場主はヒヒヒと笑った。 「いくらでも泊まっていくがいい。この薬はまだあるのかい」 「少々なら」  幾らもないのだが、出し惜しむ気はなく、私は教えた。  その代わり、割りに合わない分は補ってもらいたい。 「有翼一角獣《アリコーン》が生まれたら、いくらでも払ってやらぁ。長靴いっぱいの金貨でも、宝石でもな」  気が大きくなっているのか、牧場主は天井を見つめてにやにやしていた。  散らかった寝床には、薄汚い毛布の中に、古びた鎧《アーマー》が何かの死骸のように散らばっている。  街道を行き来する用心棒やら、傭兵を生業《なりわい》とするような者が着る鎧《よろい》だ。ところどころ凹み、傷や曇りがあり、補修された跡もあった。  この男が昔からずっとこの牧場に居た訳ではないらしいことが察せられたが、今では鎧と共寝する男だ。衰えて緩み切った太い腹を見る限り、その鎧の中にこの男が我が身を突っ込むことは、もはや無理そうに思えた。  抱いて寝るのが関の山の、昔の夢か。 「有翼一角獣《アリコーン》とは?」  私は尋ねた。  寝床で浅い息をする牧場主の軽い喘鳴《ぜんめい》がしばらく聞こえた。 「生まれるんだ、もうじき。厩舎《きゅうしゃ》に孕《はら》んだ天馬《ペガサス》がいる。そいつが森の一角獣《ユニコーン》といい仲でな、腹の子には、角と……翼があるはずだ。そいつが魔法でこの俺を、王にする」  薄笑いして、男はどこか別の場所を見ているような目で暗い天井を睨み、嬉しげに言った。  有翼一角獣《アリコーン》の主となった者は、この世の全ての王とも言えるほどの、強大な力を手に入れられるのだと。 「そんなもの本当にいるんですか?」  いるのかどうだか疑わしい。  私がそう思うのは男の顔つきが尋常でないせいだ。  男の陽気な饒舌《じょうぜつ》は、もしかしたら遠い山村の薬のもたらす酔いのせいだったかもしれぬ。 「いるともさ……見せてやる。手伝ってくれ。あいつらに水を飲ませてやらにゃあならねえ」  まだ元気とは到底見えないが、牧場主は寝床から這うように起きあがろうとしていた。  私は止めはしなかった。  残された人生をどう使おうが、この男の勝手だからだ。
天馬《ペガサス》と一角獣《ユニコーン》は本当にいた。  以前はよく管理されていたのだろう、しっかりとした作りの厩舎《きゅうしゃ》に手厚く飼われ、ありきたりの家畜のように天馬《ペガサス》は囲いの藁《わら》の中にいた。  見ればその白い腹は大きく膨らみ、天馬《ペガサス》は苦しげに敷き藁の中に座っている。  馬が子を産むのを見たことがあるが、天馬《ペガサス》も同じかは知らない。  その白い馬体の背には、確かに巨大な白鳥のような翼が一対生えている。  この目で見ると、それがそう突飛なものとも思えなくなった。  実際に目の前にあるものを信じないほうが難しい。  天馬《ペガサス》の細い足には鎖のついた鉄の輪がはめられ、輪の留め具は鋳《い》つぶされていた。  鎖の端は厩舎の太い柱に固定されていて、外す方法もないようだ。柱には鎖で擦れた痕がたくさん残っていた。  天馬《ペガサス》はずっとここに囚われており、自由に空を駆け回るわけではないらしい。 「水を汲んできてやってくれ」  自分も息も絶え絶えの男が苦しむ天馬《ペガサス》に縋《すが》り、厩舎の壁にかけてあった桶《おけ》を私に指差して示した。  働かされるのかと私は驚いたが、断れるような気配はない。  初老の牧場主は弱っているようだったし、産褥《さんじょく》の天馬《ペガサス》も弱っていたからだ。  私は桶《おけ》を取り、厩舎の裏にあるという井戸を探す足取りで木造の建物を出て行った。  そこにはあの一角獣《ユニコーン》がいた。  私が森で見たやつだ。  そうだという確信の湧く、輝く白い馬体が、井戸のそばでのんびりと佇《たたず》み、長いまつ毛のある瞳で物憂げに厩舎を見ていた。  どこにも繋がれておらず、一角獣《ユニコーン》は気ままに厩舎の裏を歩き回っており、放し飼いにされているようだった。 「水を……汲んでもいいかな」  もしや人語を解するのではと思い、私は一角獣《ユニコーン》に遠慮して言った。  私は旅から学んできた。相手が人ではないからといって、人語を解《かい》さぬとは限らないのだ。  礼儀正しく語りかけるべきだ。特にこういう、光り輝く生き物には油断してはならない。  一角獣《ユニコーン》は長い巻毛の立髪《たてがみ》の陰から、うっそりと私を見た。  その煌《きら》めく金髪のような立髪《たてがみ》の合間から、乙女の細腕ほどの捩《ねじ》れた角が一本、生えている。  それにどんな魔法力があるか知らないが、迂闊《うかつ》に撫でて良いものには見えなかった。 「お前には、妻はいるか」  馬が喋《しゃべ》った。その、一角獣《ユニコーン》が。  こちらから話しかけたくせに、私はぎくりとした。  喋《しゃべ》る馬を見るのは初めてだったからだ。  馬は口を閉じていたが、私にはその声が聞こえた。 「妻はいるか」  一角獣《ユニコーン》は繰り返し、こちらを見つめて静かに尋ねてきた。 「いや……生憎《あいにく》いない」  桶《おけ》を持って、恐る恐る井戸に近づき、私は佇《たたず》む一角獣《ユニコーン》の側で、井戸に吊るされた鶴瓶《つるべ》の桶《おけ》で水を汲んだ。 「そうか。お前は幸せだ。妻を亡くす悲しみを知らぬ」  馬はそう言って、青い目からはらはらと涙をこぼした。一角獣《ユニコーン》の涙だ。  もしかして何かの魔力か薬効があるかもしれぬが、私には知識がなかった。  人魚の涙を探している男と旅の空で会ったことはあったが、一角獣《ユニコーン》が泣くという話は聞いたことがない。  馬は本当に悲しげに泣いていた。 「君の奥さんて、厩舎にいる天馬《ペガサス》のこと?」  水の入った桶《おけ》を持ち上げて、私は尋ねた。馬は角のある頭を振って、物憂げに頷《うなず》いている。 「そうだ。あの男が私と妻を娶《めあわ》せたのだ。翼と角のある仔馬を得たいがために。それでも私はずっと哀れな妻を愛してきた」  馬の声には、吟遊詩人がかき鳴らす琴のような哀愁があった。  美しい生き物だった。 「仔馬が無事に生まれるよう、手伝うよ。心配しないで」  私はそう励まして、厩舎に戻った。  水を汲む間に天馬《ペガサス》は破水しており、厩舎には血と羊水の匂いがしていた。  牧場主は馬に取り付き、その産道から仔馬の足らしきものを引き抜こうと必死になっていた。 「くそう、力が出ねぇ……。お前、ロープを持ってこい。引っ張らなきゃならねえ」  自分も死にそうな顔色で、男は仔馬の足を掴んでいる。  私にはそれが仔馬の後足に見えた。 「逆子だ。畜生。死なせてなるものか」  牧場主は怒鳴るように言い、渾身の力で仔馬の足を引っ張っているように見えた。  私は汲んできた水を天馬《ペガサス》に飲ませてやろうとした。  急いで馬の頭に回り、桶《おけ》を傾けてやろうとしたら、敷藁に倒れた馬は既に白目をむいており、口からは泡を吹いていた。  もはや命あるものには見えないが、まだ死にきってもいなかった。震えるように息をしている。  厩舎の藁はおびただしい血に染まっていて、馬は血を失ったせいで死にかかっているのだ。  今も血は流れ続けていたが、打つ手は何もなかった。  産褥《さんじょく》に死はつきものだ。  しかしまだ仔馬は生きているかもしれぬ。  牧場主が指さすほうを探し、私は麦わらを編んだロープを見つけてきた。  それを仔馬の後足に結え、牧場主と二人がかり、力任せに引っ張った。  母親が死ねば、仔馬も死ぬ。引き出して臍《へそ》の緒を切らなければ、仔馬に生きる望みはなかった。
苦闘すること、どのくらいだっただろうか。  私は一人で仔馬を哀れな天馬《ペガサス》の胎内から引き摺り出した。  気づくと私は一人でロープを引っ張っており、牧場主は力尽きた様子でぐったりと厩舎の血塗れの敷藁に倒れていた。  ずるりと出てきた、膜に包まれた仔馬の臍《へそ》の緒を、私は大急ぎでナイフで切った。  切られた臍《へそ》の緒からは血があふれ、それでも仔馬はぐったりとして鳴き声を上げない。  厩舎の隅にあった乾いた藁を持ってきて、私は仔馬の体を大急ぎで拭いてやり、そして覚悟を決めて、濡れた仔馬に接吻した。  馬と口付けすることがあるとは、我ながら思いがけなかった。  だが、いつぞや泊まった宿屋の馬小屋でも馬の出産があり、その時も仔馬は逆子で生まれてきた。  手慣れた農夫がその仔馬に口付けをして、思い切り肺に息を吹き込んでやると、死ぬばかりに思えた仔馬が息を吹き返したのだ。  そんな奇跡が起きるといいと願い、私は見様見真似《みようみまね》で仔馬に息を分け与えた。  母馬の死と引き換えに生まれてきた仔馬だが、死んだ天馬《ペガサス》も仔馬に生きて欲しいと願っていただろう。  仔馬にはまだ運があった。  二度三度、小さな肺を膨らませてやると、仔馬は吸い込んでいた羊水を吐き、苦しい息をしはじめた。  母親の血に染まり、その体は赤みがかっていたが、確かに白い仔馬だった。母親と同じ。父親とも同じだ。  しかし、仔馬には翼がなかった。そして角もなかったのだ。 「有翼一角獣《アリコーン》じゃねえ……」  弱々しい声で、藁に倒れていた牧場主が言った。 「有翼一角獣《アリコーン》じゃなかった。また……また、違った。畜生!」  震える声で罵りながら、男がやっと息をしている仔馬を蹴ろうとするので、私は驚いて仔馬を抱いて庇《かば》った。  蒼白の顔で倒れ伏しているくせに、男の蹴りは痛かった。殺意のある蹴りだ。 「畜生! できそこないの駄馬《だば》め! 母親を殺しやがって。お前が死ねばよかったんだ」  激昂してわめく男は何度か仔馬を蹴り続けたが、私はなんとかそれを防いだ。  青あざぐらいは覚悟したものの、男の蹴りはすぐに弱々しくなった。  咳き込みながら男は呻《うめ》き、すでにもう血塗れの藁の上に、どっと吐血した。  黒ずみはじめた母馬の鮮血に、さらにどす黒い牧場主の吐いた血が混ざった。 「もう終わりだ。畜生。なんで俺は……有翼一角獣《アリコーン》の主人になれないんだ。なんで……」  朦朧《もうろう》と言い、男は震え始めた。  まだ山村の秘薬が効いており、さほどの苦痛はないようだったが、男が死にかけているのは私の目にも分かった。  青黒くなりはじめた顔には死相があらわれ、男は血混じりの何か分からぬものを次々に吐いた。 「駄馬ばかりだ……畜生、駄馬……ばかり、産みやがっ、て」  うわ言を言って、男は震え、しばしの恐ろしい呻吟《しんぎん》ののち、こと切れた。  最期の言葉を聞いてやる暇《いとま》もなかった。  呪詛と悪態だけを残し、誰かもわからぬ男は逝《い》った。  既に冷たくなりはじめている天馬《ペガサス》の死体と並んで転がる、髪を振り乱した男の死体は、悪臭を放ち、ひどく萎《しな》びて見えた。
6
人一人の死を看取《みと》ったというのに、私は悲しく無かった。  自分の腕に抱いた、仔馬の確かな体温だけが悲しかった。  生きてそれを慈《いつく》しむべき母馬は死んだのに、仔馬はまだ暖かく、大人しく私に抱かれて、静かな息を繰り返している。  仔馬には翼がなく、ただの馬だったが、それが何なのか。  苦労して生まれてきた仔馬が、母馬無しでは、このまま飢えて死ぬのではないかと私は心配だった。  それで井戸端にいるはずの一角獣《ユニコーン》のもとへ、仔馬を連れてきたのだ。 「生まれたよ」  息をしている仔馬を、私は一角獣《ユニコーン》の足元に座らせた。  外は遠《とお》に夜になっており、母馬の産みの苦しみの間に一夜が早くも駆け抜けようとしていた。  草には露がおりていたので、仔馬は寒いのではないかと思えた。  何か着せるものがいる。  温かい舌で舐めてやっている父親のところに仔馬を預け、私は牧場主の家の中に毛布を取りに行った。  もう主人のいない丸木の小屋の、散らかったベッドには古びた毛布があり、とても清潔とは見えなかったものの、仔馬には無いよりましだ。  それを剥《は》ぎ取って戻り、白い仔馬に着せ掛けてやると、父親が舐めて綺麗にしてやった仔馬は、弓のように痩せた月の明かりの下でも、輝くように白く見えた。 「有翼一角獣《アリコーン》じゃなかったね」  父馬の一角獣《ユニコーン》も、まさかがっかりしているのかと、様子を伺《うかが》いながら私は言った。 「妻は死んでしまった。哀れな天馬《ペガサス》。厩舎に繋がれたまま死んでしまった」  白い一角獣《ユニコーン》はまた、はらはらと大粒の涙をこぼして言った。 「妻は幾度も子を与えたが、あの男は満足しなかった。私と妻の可哀想な仔馬たち」  そう呼びかける一角獣《ユニコーン》の言葉は慈愛に満ちており、仔馬は待っている父馬の目に見つめられながら、月明かりの下でゆっくりと立った。  私たちはしばし無言でそれを見守っていた。  生まれたばかりの馬がこんなに早く立ち上がるとは、いつ見ても不思議だった。 「私たちの主人だったあの男は死んだ。お前は仔馬の新しい主人になるか?」  長いまつ毛のある目で、一角獣《ユニコーン》は私を見たが、私にはそんなことはどうでもよかった。 「それより、仔馬に乳を飲ませてくれる馬を探さなきゃいけないよ」  せっかく助かった馬に、何とか生きてもらいたいと私は願っていた。  たった一人で住んでいた牧場主が死んだ今、誰がこの仔馬や一角獣《ユニコーン》の世話をするのか。  私は旅の途中で、ここに留まることはできない。生まれて間もない仔馬を旅に付き合わせるわけにもいかなかった。 「大丈夫だ。私たちはものは食べない」  立ち上がった仔馬と頬擦《ほおず》りしあって、一角獣《ユニコーン》は言った。 「そうなのか……」  私は不思議さに呆然として、戯《じゃ》れ合う白い親子を見つめた。 「お前が仔馬の主人でないなら、私たちはもう行こう。この子の主人を探しに」  金の立髪《たてがみ》を夜風に靡《なび》かせて、一角獣《ユニコーン》は天を仰いだ。  夜の天球がゆっくりと回転し、朝が迫って見えた。  淡い朝焼けが地平線を染め、|明けの明星《ルシファー》が昇ってくる。  仔馬はそれを見上げ、夜露のおりた草地を蹴っていた。  その音に呼び寄せられるようにして、闇の中から、いくつもの蹄《ひづめ》の音がした。  牧場の囲いの中にいたらしい、いくつもの白い馬影が夜の闇から現れ出てきた。  どれも父親ゆずりの金の立髪《たてがみ》をした、眩《まぶ》しいほど白い馬たちだ。  そのどれもが翼もなく、角もない、ただの馬に見えた。  牧場主はそれでもこの馬たちを飼っていたのだろうか。この狭苦しい牧場の馬囲いの中で。  待っていればいつか、翼が生え、角が生えると期待してのことだったのだろうか。  そんなものはなくても、美しい馬たちだった。それを慈しんで生きるのでは、何が足りなかったのか。  その美しい白い群れが、月夜の森を駆け回る幻影を、私も思い描いてみた。  馬たちに白く捻《ねじ》れた角が生え、白い翼を背に生やして、星々の輝く夜空へと飛び立つのを見たい。  そう願った牧場主の気持ちがわからぬでもないが、この馬たちに何か欠けたものがあるとは、私には思えなかった。 「皆にいい主人が見つかるといいね」 「気が変わったなら、お前にも王国をやろう」  一角獣《ユニコーン》の申し出を、私はありがたく気持ちだけ受け取ることにした。  私は旅人だ。王国をもらったら、もう自由に旅ができないだろう。旅こそが私の王国なのだ。  私が首を横に振ると、馬たちはじっと青い目で私を見つめた。 「あの男に、君はなぜ王国をあげなかったの」 「与えた。ここがあの男の王国だった。旅の仲間だった娘とここで暮らし、子をもうけて、いつまでもいつまでも幸せに暮らせたはずだ」  ありきたりの御伽噺《おとぎばなし》の終わりのように、白い一角獣《ユニコーン》は死んだ男のことを語った。 「私たちは共に冒険をした。さまざまな国、さまざまな街を見て、幾多の苦難を共にした。その若き日は過ぎ、ここは良い土地だった。麦が育ち……子供らも育っただろう」 「あの男の死を知らせるべき人たちがどこかにいるか」  厩舎で死んでいる男のことを思い、私は一角獣《ユニコーン》に聞いた。 「いない。あれは孤児だった。男の妻は、流行り病で死んだ。妻も子も、今は土の下だ」  冷たい牧場の土を踏んで、一角獣《ユニコーン》は寂しげに語っていた。 「あの娘も、子供らも、私を殺して角を与えれば生きられたかもしれぬ。一角獣《ユニコーン》の角に薬効があると聞いたことは?」  白い馬の問いかけに、私は黙って頷いた。聞いたことがある。 「しかし、あの男は王国が欲しかったのだろう。妻や子や、この牧場よりも、見たこともない王国が」  私は初めて、孤独な男の死を悲しいと思った。  私が彼から聞けなかった数々の冒険譚。その娘と踏破したのかもしれぬ幾多の道の話を聞けたら、私とあの男は友だったかもしれぬ。  私がもう少し早くここに来ていれば、彼を説得できたかもしれないのだ。  一角獣《ユニコーン》を犠牲にし、家族を救うべきだと。  だが、男の冒険は遠に終わっており、有翼一角獣《アリコーン》を求める妄執だけが、ここで生き残っていた。  それが旅の終わりだったとは。あまりにも悲しい旅だ。 「一角獣《ユニコーン》。旅の空で私は死にたいんだ。王国などいらない。彼もそうだったかもしれない」  鎧と寝ていた男のことを哀れんで、私は白い魔物に言った。 「そんな人間などいない」  馬は優しい声で、きっぱりと言った。私は唇を噛み締めた。 「君と出会ったのが、あの人には運の尽きだったね」  馬は何も言わなかった。ただ美しい青い目で、物憂げに私を見るだけだ。  有翼一角獣《アリコーン》の伝説について、ある者は言う。それは呪いであると。別の者は言う。それは幸運であると。  どちらが本当であるか、見極めることはできない。  現にあの男は幸運に呪われて死んだ。私もそうならないと誰が言えるだろうか。 「案ずるな、旅の人。既に王である者に与える王国はない。お前ももう行くがいい」  立ち去る気配で一角獣《ユニコーン》は言った。  彼が血を分けた多くの馬たちに囲まれながら。  興奮して足を踏み鳴らす馬たちの、一番幼い仔馬にまず、月光を集めたような白い翼が生えた。そして天を指す小さな角が。  それを取り囲む兄弟たちも嘶《いなな》きながら草原を歩き、次々に翼と角を生やした。  有翼一角獣《アリコーン》だ。  その群れが一斉に飛び立つのを、私は一人、空っぽになった牧場に立って見上げた。  朝に焼かれた東の空に、|明けの明星《ルシファー》が眩《まばゆ》く輝いていた。  小さいが、見つめずにはいられない遠い光だ。  馬たちは天に駆け上る流星のように、その星を目指して飛び、やがて小さな点となって白む空に薄れて消えた。  あの一頭一頭がどこかで誰かと出会い、新しい王国を作るのか。それがどんな物語か、私はまだ知らない。  しかし、その一つ一つが幸運の物語であることを、私は祈った。
END
2022/01/04 初稿