014:隠蔽工作

 
 夕食の約束をしているという食堂まで、シェルと並んで歩きながら、シュレーは簡単に学院の中を案内してくれた。  増改築の挙げ句に迷路じみた複雑さのある学寮の中では、見たことのない道を歩くよりは、多少遠回りでも、知った道を使う方がいいのだそうだ。シュレーは自分の知っている道をいくつか教えてくれたが、シェルはそれを上の空で聞いていた。  通りすがる山エルフの学生たちが、尊敬の眼差しでシュレーを見送り、中には軽く礼をするのに出会うと、シェルは何となく落ちつかなかった。シュレーは通りすがりの学生たちには注意をはらう様子もない。きっと、シュレーは慣れているのだろう。 「彼らが気になるかい?」 「えっ!?」  きゅうに質問されて、シェルはどぎまぎしてしまった。シュレーが優しげに微笑した。 「気にすることはないよ。おかしいのは君じゃなくて、彼らの方だ。私はもう神殿の一員ではないから、特別な礼をとる必要はないんだよ」 「そうですね。でも、ライラル殿下はなんだか威厳があるから、ああやって頭をさげたくなる気持ちもわからなくはないです」  照れながらシェルが答えると、シュレーは黙って微笑んだ。それは、限りなく無表情に近い微笑だった。 「義兄(あに)上!」  背後から呼び止める声を聞いて、シュレーの顔から微笑がかき消えた。厳しい顔つきで振り向くシュレーを、シェルは呆気にとられて見守った。 「オルファン」  無表情な声で呟いたシュレーの目線を追い、シェルは廊下の向こうから追ってくる山エルフの少年を見つけた。  長身の少年は、シュレーの側まで来ると、略式の礼をとった。少年の態度は、位の高い神官に対する礼儀にかなったものだった。彼の短く刈った金髪は白金のような淡い色をしており、目は緑かがったグレー。額には、金に白金で象眼のある額冠(ティアラ)を締めていた。部族長の一族を示す印だ。 「こちらは?」  シェルの額に額冠(ティアラ)を見つけて、山エルフの少年はかすかに動揺を見せた。 「森エルフの客人だよ。シェル・マイオス・エントゥリオ殿下だ」 「そうでしたか。はじめまして」  少年は、心臓の上に軽く右手をあてて、シェルに微笑みかけた。お辞儀をする必要はないのかと納得して、シェルは彼の真似をし、挨拶を返した。 「彼はアルフ・オルファン・フォーリュンベルグ。私の従弟だ」  シュレーが静かに付け加えた。額冠(ティアラ)の示すとおり、彼の名は、山エルフの王族のものだった。 「今は義弟(おとうと)ですよ、義兄上(あにうえ)」  人なつこく微笑んで、アルフ・オルファンは訂正した。 「君の母上がそれを認めてくださればの話だ」  シュレーは含みのある微笑を浮かべた。 「母に異存のあるはずがありませんよ。義兄上(あにうえ)は部族の正統な後継者です」 「それは違うな、オルファン。部族を継ぐのは君だよ。私にはその気はないから、私の食事に一服盛るのは、そろそろ止めてくださるように、義母上(ははうえ)にお願いしておいてくれ。それとも、私は永遠に醒めない眠りにつくまで、額冠(ティアラ)はいただけないのかな?」 「ご冗談を」  アルフ・オルファンは少し困ったような顔をした。シュレーは相変わらずの、優しげな微笑みを浮かべている。シェルは笑っていいのかどうか解らず、ひきつった顔をしてしまった。 「最近どうも体調がすぐれなくてね。冗談が下手なのは、そのせいかもしれないな」  シュレーはなぜか声をたてて笑った。わけが解らず、シェルもそれに釣られて煮えきらない笑い声をたてたが、アルフ・オルファンは笑っていなかった。  「何か用事があったのだろう、オルファン」  ぴたりと急に笑い止んで、シュレーは言った。 「……昨夜、学生たちの間で決闘騒ぎがあったとか」  圧し殺した声で言うアルフ・オルファンの表情は固かった。 「それは大変だな。誰か懲罰房に送られるのかい」 「決闘を仕掛けた者が見つからないので、懲罰房に入れられたのは、決闘に乗った学生が数人だけです」 「なるほど。それは示しがつかないな」 「義兄上(あにうえ)は犯人をご存知なのでは?」  微笑むシュレーの顔を見つめて、アルフ・オルファンは尋ねた。彼の言葉には、シュレーが犯人を知っていることを確信している気配があった。頭一つ分ほども背の高い二人がにらみ合っているのを、シェルは落ちつかない気分で見比べた。義理とはいえ、兄弟どうしだという二人が、なぜ緊張した気配で言葉をかわすのか、シェルには理解できなかった。 「残念だが知らない。君もよく知っているとおり、私は食堂には行かないのでね。いつも君の母上特製の調味料が入った食事を、自分の部屋で食べている」 「………静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)と呼ばれるお方が、なぜ異民族の肩を持つのですか。同族の者が恥を受けても、あなたは平気なんですか、義兄上(あにうえ)。それとも、神殿の血を持つあなたにとって、同族と思えるのは聖楼城に住む方々だけだとでも?」  アルフ・オルファンは何とか微笑しようとしているようだったが、そのこめかみは怒りのために細かく痙攣していた。 「落ちつくがいい、オルファン」  くすくすと忍び笑いをもらして、シュレーは義弟の白い頬をさらりと撫でた。咄嗟のことに驚き、アルフ・オルファンは怯えた子供のように身を退いた。 「私は何も知らない。静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)と呼ばれていたのは、君と同族になる以前の話だ。オルファン、君は矛盾した事を言っている。君と同族なのは、ブラン・アムリネスではない、ただのシュレー・ライラルだ」 「義兄上(あにうえ)…」  顔を歪めて、アルフ・オルファンはシュレーを見つめている。その視線を受けても、シュレーの微笑は変わらなかった。シェルとお茶を飲んでいる時に見せていた、神々しいあの微笑とも、少しも違わない。 「族長になるんだろう。直接乗り込んできて、わめき散らすのは、うまい手ではないと憶えておくといい。君は人を信用しすぎる。その調子では、戦う前から勝負がついているぞ」 「義兄上(あにうえ)…名誉の問題です。学院は、決闘の首謀者の責任を、このまま不問にするそうです。でも、そんな事で、誰が納得するというんですか! みっともなく敗北した者だけが懲罰房に入れられて、決闘を仕掛けた者がのうのうとしているなんて………!」  次第に口調を荒くするアルフ・オルファンを、シュレーは微笑みながら見守っている。オルファンは、途中で言葉を失って目を閉じた。シュレーと目を合わせているのに耐えられなくなったように、彼はがくりとうなだれた。 「学院の学生たちを取り仕切っているのは、大法官である、この僕だとご存知のはずだ。……犯人を処罰できなければ、腰抜けだと笑い者にされます。首謀者を処罰させてください」  悔しそうにうつむき、アルフ・オルファンは言った。シェルはアルフ・オルファンが気の毒になった。アルフ・オルファンは、かたく握りしめた手を、小刻みに震わせていた。気位の高い山エルフは、どんな些細なことでも、名誉を重んじる。ほんの少しの侮辱にも耐えられないのが、彼らの弱さであり、彼らの強さでもある。  「犯人を見つける方法はないんですか?」  遠慮しながら、シェルはシュレーに尋ねた。シュレーはシェルに顔を向け、困ったように微笑んだ。 「オルファンは犯人を知っているようだ」 「じゃあ、その人たちを処罰すればいいんじゃないんですか?」  当たり前の事だ。シェルはびっくりして、声を高くした。そして、何気なくアルフ・オルファンの顔を見て、息を呑んだ。うなだれた姿勢のまま、シュレーを見上げる彼の目には、憎しみの色が明らかだった。  「マイオスの言うとおりだ、オルファン。犯人を知っているなら処罰すればいい。明確な犯人が見つかっているなら、大法官であるお前の決定に、学院も反対すまい」  にっこりと微笑み、シュレーはシェルの意見に賛成してくれた。しかし、オルファンは何も答えなかった。 「食事の約束をしているので、私達はもう行く。今夜は義母上(ははうえ)特製の調味料を味わえなくて残念だ」  シュレーに促されて、シェルは歩き出した。振り向いて見ると、アルフ・オルファンは、うつむいたまま動く気配もない。  シェルは不安になって、シュレーの顔を見上げた。シュレーはいつも通りの微笑を浮かべている。無表情と変わらない、意味のない微笑だ。それは神官特有の表情だった。  「いいんですか、彼を残していって…」  ひそめた声で、シェルはシュレーに尋ねた。シュレーは前を向いたまま、口元を笑いで歪めた。 「放っておくといい。手も足も出なくなって、腹いせに私を罵りに来ただけだ。それでは何も解決しない」 「なぜ、あなたを罵りになんて…」 「私が犯人を隠匿しているからだ。決闘を仕掛けた犯人のことは忘れるように、学院長に忠告した。学院の自治は、生徒の中から選ばれる大法官が取り仕切るのが習わしだが、学院長からの命令が優先される。大法官に任命されるのは、大抵が山エルフの次期族長候補者で、族長としての適性を調べるためのお遊びみたいなものなんだ。非常時には、その権限を学院長に回収されるんだよ」  こともなげに、シュレーは説明した。 「あなたは、学院長に命令して、犯人の罪をうやむやにしたんですね」  裏切られた気分で、シェルは確認した。シュレーは誰かの罪をもみ消してやったのだ。それは、自分自身の罪かもしれないし、ごく親しい誰かの罪かもしれない。シュレーが、神聖な微笑を浮かべるこの顔で、そんなことをするなんて、シェルは想像したくもなかった。 「命令したわけではないよ。私にはそんな権限はない。ただ少し意見を言っただけだ」 「あなたの義弟(おとうと)に同情します」 「四部族連合の意義を理解できない彼には、私も同情しているよ」  シェルの顔を横目で見おろし、シュレーは真顔で言った。シェルは、その言葉の意味がわからず、無意識に立ち止まってしまった。 「私が庇っているのは、黒エルフのスィグル・レイラスと海エルフのイルス・フォルデスだ。彼らは私刑にあったんだよ。仕掛けたのは彼らでも、原因をつくったのは山エルフの学生たちだ。この場合の処罰は、政治的な都合を考えると、双方不問にするのが正しい。先に山エルフの学生を懲罰房に入れて処分してしまったオルファンの失態だ。彼には、正義漢ぶりたがる悪い癖がある。族長には向かない」 「でも……でも、それじゃ、オルファン殿下の立場がないじゃないですか。義弟(おとうと)が可哀想だと思わないんですか?」  シェルは本心から言った。シュレーは静かに微笑した。 「彼は母親と共謀して、私の食事に毒を盛っている。私の哀れな執事をだまして、日毎に私を裏切らせているのさ。第一継承権を持つ私が邪魔なんだろう。おかげで、私は毎日、何種類かの解毒剤を飲まなければ生きていられない。それでもオルファンには同情を感じているよ。彼は生きている限り、私と戦わねばならなくなった。私は彼には手加減してやれない。命がかかっているからね」  シェルは数歩先で立ち止まり、自分の方を見つめているシュレーを、信じられない気分で眺めた。後ろを振り返ると、廊下の先には、まだアルフ・オルファンが立ち尽くしている。屈辱と憎しみで震える彼の視線は、シュレーに向けられていた。  同じ血を持った従兄弟どうしで殺し合わなければいけないなんて。シェルは、自分の兄たちや姉たちのことを思い出した。自分が兄弟たちと殺し合うところを想像しようとしたが、シェルにはできなかった。毎日うるさく自分をからかいに来る兄たちに腹を立てたことは何度もあったが、殺したいと思ったことなどない。いつまでも子供っぽく、本を読んでばかりいるシェルを、兄たちは本の虫だと言い、呆れながらでも可愛がってくれていた。シェルには政治のことなど解るわけがないと言われると、腹を立てていたものだったが、兄たちの言っていたことは間違いではなかった。シェルには政治がわからない。シュレーの言っている事の意味を頭では理解できても、心がそれについていけない。 「信じなくていいよ、マイオス」  どこか楽しげに、シュレーは言った。 「君には関係のない世界の話だ」  シュレーはシェルに歩き出すように促し、自分もまた歩き出した。シェルは、アルフ・オルファンの視線が、目の前にあるシュレーの背中に突き刺さっているのを感じながら、その後を追った。