020:毒殺師

 
 海エルフ族の族長が宮殿をかまえる海都サウザスは、豊かではあるが小さな都市だった。港ばかりが海に張り出し、三角帆を張った大型船が十数隻も停泊している。そのうちの大半は、大陸産の宝石や織物などの奢侈(しゃし)品を積み込み、遠く外海を渡って、隣の大陸へと向かうものだ。一年におよぶ航海ののち、大型船は別の世界からの貿易品を満載して戻ってくる。帰路の主な積み荷は、紙だった。  エルフ諸族の生まれ故郷である、この広大な大陸では、製紙技術が途絶えて久しい。羊皮紙ならば、内陸の山岳部でかろうじて生産されているが、植物の繊維を使ってつくられる紙は、すべて隣の大陸から輸入されたものだ。公式文書や贅沢な貴族達の使う紙は、例外なく、海を渡ってもたらされた奢侈(しゃし)品だった。  この紙貿易の生み出す富により、海エルフ族の財政のほぼ8割方がまかなわれていた。海の向こうからやってくる財で、彼らは船をつくり、都市をつくる。  黒エルフ族の族長、リューズ・スィノニムは、白漆喰の壁を抜いて透かし模様を施した華麗な窓から、遠くの水平線に消えようとしている船影を見つめていた。青々とした海を照らす太陽の輝きは、闇に適応した黒エルフの目には、いささか眩しすぎる。目を細め、リューズは顔に手をそえて影をつくった。紺碧の海の色は、確かに海エルフたちの瞳の色を思わせる。  交易の契約のために、族長リューズが海エルフ族の都を訪れるのは、毎年の恒例行事だった。黒エルフ族の求める主な物産は、海辺でつくられる塩だ。砂漠の地下で掘り出される岩塩だけで、部族の民を潤すには限度がある。内陸の奢侈品を求める海エルフ族と契約し、いくらかの宝石や絹織物と引き替えに、塩を得るのが、リューズが族長の額冠(ティアラ)を引き継いで以来の慣習だった。  契約のための話し合いは、使者を送って済ますこともできるが、リューズは海を見るのを好み、よほどのことがなければ、いつも自ら足を運んでいた。長年の盟友である、海エルフの族長ヘンリックと顔を合わせるのも、長旅の楽しみの一つだ。  「今年の塩だ。契約書に署名を」  背後で聞こえた声に、リューズは振り返った。黒檀で作られた異国風の長机の上には、何枚もの書類が広げられていた。その中の、たった一枚を買う金で、つつましい部族の民が、10日は家族を養える。  長衣(ジュラバ)の裾を優雅にさばいて、リューズは机に歩み寄った。 「ヘンリック、貿易は楽しいか」  椅子に腰をおろし、リューズは向の席から羽根ペンを差し出す海エルフの族長に意地悪く笑いかけた。ペンを手渡し、ヘンリックが苦笑した。浅黒い額に、海エルフ族の族長であることを示す、紺碧の額冠(ティアラ)がよく映えている。族長の額冠(ティアラ)は、海エルフでも代々同じ品を受け継いでいるはずだが、それはまるで、ヘンリックのためにあつらえた物のように思えた。 「楽しいわけではない。だが、この貧しい部族が生き延びるには、いろいろとコツがいる。お前達と違って、砂漠の底から飽きるほど宝石を掘り出せるわけではないからな」 「それはヒガミか。だから塩の値を釣り上げるのだな。悪徳なことだ」  契約の書類を眺めながら、リューズは大仰に嘆いて見せた。 「値切っても無駄だ」  勝手を知っている顔で、ヘンリックは笑っている。以前は簡単に動揺していた武人あがりのこの男も、今では立派な商売人ということか。リューズはつまらなく思ったが、文句を言うのはやめにして、大人しく自分の署名を書き込んでやることにした。  「所定の期日に港へ船を着けろ。間に合うように隊商(キャラバン)を送る」  荷物の引き渡しは、二つの部族が領境を接する港町で行われる予定だ。そこから先、塩を詰めた革袋は、数十頭の砂牛を連ねた隊商(キャラバン)に引き継がれ、いくつものオアシスを経由して、砂漠の都タンジールにたどり着く。 「隣大陸から、大粒のサファイアをそろえろという注文がある。手持ちがあれば、荷物にそれを混ぜてくれ。屑は掴ませないと信じてるぞ、リューズ」  後ろで控えていた侍従に書類を渡しながら、ヘンリックが冗談めかせて言った。まだ子供のようにも見える侍従は、緊張した面もちで紙束を受け取った。青い目の少年は、リューズと目が会うと、哀れなほど狼狽(うろた)え、慌てて部屋を出ていった。不調法な侍従だ。大方、貴族嫌いのヘンリックが、平民の子を取り立てたのだろう。ヘンリックには昔から、身分の低い者の中から頭角を顕した逸材を重用し、身近に置くのを好む癖がある。客の前で醜態をさらす侍従を好き好んで使う気持ちが、まったく理解できなかったが、リューズは、敢えてそれには触れないことにした。  「損はさせない。お前に恨まれると、砂の混じった塩を売られるからな。そんなことになったら、俺の民が哀れだ。塩なしで生き延びるには、砂漠の夏は暑すぎる」  大仰なため息をつき、リューズは胸が痛むというように、自分の心臓を覆ってみせた。ヘンリックがあきれたような顔をする。 「人聞きの悪いことを言うな。その噂を流したのはお前だったんだな」 「商売をするなら、悪名の一つや二つは勲章だぞ、英雄殿」 「お前の言うことをいちいち真に受けていたら、身が持たん」  打ちひしがれた様子で首を振るヘンリックを見て、リューズはほくそ笑んだ。からかい甲斐のある奴だ。なんでも真に受ける朴訥なところが、たまらない。もう、かなりの年月を盟友として過ごし、そろそろリューズのからかい癖にも慣れてきそうなものだが、ヘンリックは、それに関してだけは、相変わらずの様子だ。  リューズが初めてヘンリックと会った時、彼はまだ族長ではなかった。もう、すでに20年近く昔のことになる。  黒エルフ族の前族長であった父が早逝し、若くして族長の額冠(ティアラ)を受け継いだリューズとは違って、ヘンリックは平民出の成り上がり者だった。一兵卒の身分でしかなかったヘンリックは、現族長の落胤(らくいん)だとかいう触れ込みで、海エルフ族の有力貴族であるバドネイル家の後援を受け、正式な決闘によって、海エルフ族を統べるための紺碧の額冠(ティアラ)を手に入れたのだ。  それまでにも、何度か海エルフ族と同盟を結んだことがあったため、リューズはバドネイル家の家長と懇意だった。当時の族長が不治の病に倒れたのを好機と見たバドネイル家は、自分たちに都合良く動く傀儡(かいらい)の次期族長を用意して、その者を推すようにとリューズに頼み込んできた。その時に引き合わされた、バドネイル家お気に入りの人形というのが、ヘンリックだったのだ。  バドネイルは、ヘンリックに入れあげていた。確かに、当時のヘンリックには何か尋常でないカリスマのようなものがあった。必要なものを掴みとるためには、何の迷いも見せない男だった。バドネイルは箱入りの一人娘をヘンリックに与え、ありとあらゆる後押しを惜しまなかった。それゆえ、平民出のどこの馬の骨とも知れないヘンリックを、黒エルフ族の族長であるリューズに引き合わせるような真似までしてのけたのだ。  だが、結局、リューズがバドネイル家の傀儡を後押ししてやることはなかった。当時のヘンリックの、野心と飢えを知る瞳の鋭さを見て、そんなものは必要がないと思ったのだ。放って置いても、この男は族長になるような気がした。そして、それは間違った判断ではなかった。  彼はバドネイルの思惑通り、当時の族長を決闘によって倒し、その後にうち続く挑戦者をも、一人残らず打ち負かした。部族で最強の者を族長として迎えるのが、海エルフ族の建て前だったが、族長の額冠(ティアラ)が、世襲でなく受け継がれるのは、実に十数代ぶりの出来事だった。  額冠(ティアラ)を賭けた決闘では、対戦者のどちらか片方が命を落とすまで戦う作法だ。ヘンリックは闘技場の白い砂に、68人の対戦者の血を吸わせた。リューズはその戦いの見届け人として招待され、一兵卒あがりの男が血塗れの額冠(ティアラ)を掴み取るのを見た。バドネイル家の貴族たちが、おのが栄華を確信し、歓声をあげるのも聞いた。  しかし、ヘンリックは出来の悪い人形だった。彼は、バドネイルの傀儡としては働かなかったのだ。結局のところ、湾岸の大貴族バドネイルですら、ヘンリックが掴み取ったものの一つでしかなかったのだ。  ヘンリックが族長として最初にやった仕事は、遷都だった。貴族の邸宅が居並ぶ大都市バルハイから、この小さな港町サウザスに首都を移したのを皮切りに、ヘンリックは、湾岸貴族たちの権勢を矢継ぎ早にはぎ取っていった。そして、その被害を受けた貴族の中には、バドネイル家の者も含まれていた。  「湾岸には貴族など一人も必要ない」というのが、あの頃のヘンリックの信条だった。その湾岸貴族の権力によって族長に推された男が、それを言うのかと、リューズはおかしく思ったものだった。強い勢力を持つ貴族社会からの風が、ヘンリックにとって、苛烈な向かい風であることは、あまり良い状況とは言えない。ヘンリックを支えているのは、貿易による富と、部族の民の強い支持だけだった。単に民に愛されているだけで、族長がつとまるものではない。貴族たちを恐れないのは、権力者の腹を食い破って族長におさまった平民ならではの愚かさだったろう。  湾岸の貴族達は、奪い去られる権力を取り戻すことはできなかったが、ヘンリックにその愚かさの代償を支払わせる事には成功した。彼の愛妾を毒殺したのだ。  それは、ヘンリックにとって、あまりにも高価な代償だったといえる。妾妃の死のわけを、自らに求めて苦悩する盟友が、思いあまって命を絶つのではないかと、リューズは当時、本気で心配してやらなければならなかった。長年、懇意だった湾岸の大貴族たちを見限ってまで、平民出の族長の肩を持ってやったのだ。野心と才覚を見込んで、力を貸してやったのというのに、そう簡単に英雄伝説を終わりにされては、黒エルフの族長位を賭けるほどの大博打に、負けが出てしまう。  真夏の熱気に腐りゆく女の死体を抱いて、ヘンリックが閉じこもってしまったという話を、部族の隊商(キャラバン)から聞いた時には、ヘンリックが発狂したものと思い、リューズは彼には珍しい焦りようで、海都サウザスに駆けつけたのだった。政治的に都合のいい盟友を失いたくないという打算もあったが、それよりも、ヘンリックにはどこか、世話を焼きたい気分に他人を陥れるような所がある。そもそも、その性質のおかげで、かつては大貴族バドネイルの目にとまったわけだから、リューズひとりが躍らされていた訳でもなさそうだった。  周りの心配をよそに、ヘンリックはある日突然、正気を取り戻し、生者の世界に戻ってきた。彼に仕えていた者たちは、一様に胸をなでおろしたが、リューズはヘンリックが以前と違ってしまったのを感じていた。ヘンリックはやけに人当たりが良くなり、貴族たちをさほど追いつめなくなった。そして、リューズの前では、時折、無意識に疲れたような顔をするようになった。  リューズは、ヘンリックの意図を尋ねた事はなかったが、彼がなぜそうなったのかは、漠然と理解できているつもりだった。ヘンリックは、妾妃の忘れ形見である子供らを殺されるのではないかと恐れているのだ。ヘンリックの愛妾は、二人の男児を挙げ、三人目をはらんだまま、夜会の杯に盛られた毒のために死んだ。遺された二人の息子だけは、何としても守りたかったのだろう。命の他には、何も失うものはないと信じていたヘンリックは、妾妃を殺されて初めて、自分に弱点ができていたのに気付かされたのだ。  時折、ヘンリックが見せる不思議な疲労感と同じものを、リューズは別の場所で何度も見たことがあった。戦場で瀕死の傷を負い、死を待つばかりの味方の兵が、とどめの剣を与える自分を、それと同じ顔で見上げるを、リューズはよく憶えていた。痛みや苦しみに耐えかねて、死を待ち受ける者の目だ。死の天使の翼が触れるのを待ちきれず、情けを求める兵の顔だ。  「人質には、亡き奥方の忘れ形見を送ったそうだな」  リューズから急に意外な話を向けられて、ヘンリックは驚いた様子だった。優雅に脚を組み、リューズは相手の表情が変わるのを観察した。ヘンリックは、リューズの思惑をはかろうとするように、目を細めて盟友の顔を見つめた。 「そうだ。イルスを遣った」  堅い声で、ヘンリックは答えた。  あれからすでに10年ちかく経ったというのに、ヘンリックは、失った妾妃のことを考えるだけで、胸中をかき乱される様子だった。死んだ女の名は、確か、ヘレン・トゥランバートルといったはずだ。とりたてて目立った家柄の出身ではない。平民とさして変わらぬ下級貴族の娘で、名だたる黒エルフの美女たちに比べれば、特に美しいというほどでもなかったが、素朴で、側にいるだけで心が休まるような、平凡な女だった。  「哀れな子だ。まだ母親が恋しい年頃に母を殺されたうえ、辺境の賢者に弟子入りするという名目で首都を追われ、今度は明日をも知れぬ虜囚の身に? お前は息子に恨みでもあるのか? なぜ手元に置いてやらん」  哀れみの声を作りはするが、リューズはヘンリックをいたぶるのを楽しんでいるだけだった。ヘンリックが未だに死んだ愛妾のことを忘れていないのを、リューズはよく知っていた。 「父親らしい事のひとつもしてやらないのでは、そう遠からず息子に見限られるぞ」  唇を笑いに歪めてリューズが言うと、ヘンリックは苦みばしった顔をした。 「イルスは遠に俺を見限っているさ。あいつは何から何までヘレンに似ていて、気難しい」 「お前が自分の息子を避けるのは、息子たちが死んだ女に似ているからだ。死んだ女の面影を見るのが、そんなにつらいか?」  意地悪く、リューズは言った。ヘンリックは困ったようにため息をつき、目を伏せる。リューズは畳み掛けるように言葉を継いだ。 「母親に似るのは、子供らの罪ではあるまいよ。哀れとは思わないのか」 「思うさ」  端的に応え、ヘンリックはこめかみを押さえたまま、机に置かれた銀杯に残っていた葡萄酒を飲み干した。ヘンリックが苛立っているのを見てとり、リューズは満足した。  「あきらめて、新しい女をつくれ」  親切心から、リューズは忠告した。ヘンリックは苦笑して首を横に振った。 「有力貴族の娘を片端から娶(めと)れというのか? お前がやったように?」 「お前でも、皮肉が言えるらしいな、ヘンリック」  予想していなかったヘンリックの反撃に撃たれて、リューズは顔をしかめた。ヘンリックは、リューズになら自分の気持ちが理解できるだろうと言いたいに違いない。幼い頃からの婚約者で、愛し愛されて生きていくはずだったリューズの正妃も、出産のための宿下がり中に、権力争いに巻き込まれて謀殺されてしまった。  「お前はもっと、子供をつくれ。よそに嫁がせる娘の一人もいないくせに、年寄りぶっておさまり返っている場合か? 都合のいい女の胎(はら)を借りて、子供を増やせ。血を絶やさないためだ。死んだ女も許してくれる」 「ああ…そうだな」  弱々しく笑って応えるヘンリックには、まったくその気がないようだった。リューズは呆れて肩をすくめた。  女を死なせてから、確かにヘンリックは変わった。相変わらず、いかにも武人らしい強い族長ではあったが、額冠(ティアラ)を手に入れたばかりの頃、そうだったような、何かに飢え餓(かつ)えて権力を求めるようなところがなくなった。ヘンリックは今も、この世に生きていく意味を見失ったままなのだ。いかにも英雄然とした姿は、彼の演技でしかなく、ヘンリックはすでに疲れ果てていて、生きることに苦痛を感じている。  だが、おそらく、そんな事を知っているのは、広い大陸中を探したところで、リューズぐらいのものだろう。はなはだ迷惑な話だった。  いつまでも、ヘンリックには、誰にも心を開こうとしない臆病なところがある。本心を晒さずに生きようとするヘンリックを目の当たりにすると、リューズはいつも、彼の化けの皮を剥いでやりたい気分になる。そうやって自分に正直になったほうが、いくらも楽というものだ。黙って耐えているヘンリックの不器用さを見るたび、リューズはどうしようもなくイライラするのだった。  「ヘンリック。お前は足下にいる蛇が子供を噛むのを恐れて、竜の巣穴に子供を投げ込む馬鹿者だぞ」  苦虫を噛み潰したような顔になって、リューズは話を変えた。ヘンリックに、そろそろ本題を話してやらねばならないだろう。  いぶかしげな表情をするヘンリックの前に、リューズは懐から取り出した小さな瓶(びん)を置いた。水晶から削り出された華麗な瓶は、透明なその内側に、とろりとした深紅の液体を満たしていた。 「なんだ?」  低い声で、ヘンリックが問いかけてきた。 「アルスビューラと云う名の毒だ。北方の辺境民が狩猟に使うもので、猛毒らしい。量を使えば、即効性もある」  リューズは淡々と説明した。ヘンリックが、話の先を察知して、顔をしかめる。 「これを一瓶、葡萄酒に混ぜて飲ませるだけで、確実に命を奪えるそうだ。飲んだ者は、全身の毛穴から血を吹き出させて失血死する。無惨だな。隊商(キャラバン)の者が報告してきた。これがお前が欲しがっていた答えだ。受け取れ…恐らく間違いない。お前の女を殺した毒だ」  リューズが促しても、ヘンリックはしばらくピクリとも動かなかった。暗い海のような青の瞳が、鋭い視線で、深紅の小瓶を見おろしている。その表情は、リューズがバドネイルの海辺の屋敷で、初めてヘンリックを見た時に、彼の顔を覆っていたものに似ていた。分厚い仮面で覆い隠した、憎悪の顔だ。  思えば、あの当時から、ヘンリックは湾岸の貴族たちを憎んでいるようだった。ヘレンを殺されたことが、憎しみと復讐の原因ではない。むしろ、ヘレン・トゥランバートルを死なせてから、ヘンリックの抱えている憎しみが薄れたように思える。リューズは目を細め、獲物の様子をうかがう蛇ように、ヘンリックの顔を見つめた。  「アルスビューラは希有な毒だ。これを使う暗殺師は限られる。連中は北に住む貧しい部族で、常は狩猟の民だが、かげでは暗殺を生業(なりわい)にしている。その商売相手は主に大貴族か王族だ」 「…バドネイル」  呪詛のように、ヘンリックが呟いた。こめかみに指をあて、リューズはヘンリックの顔を眺めた。 「知ってどうする。殺すのか。お前にとっては大恩ある後見人だろう」 「確かめたかっただけだ」  手をのばして、ヘンリックは深紅の毒を満たした小瓶を取り、それを弄んだ。リューズは眉間に皺を寄せた。 「自分で飲むなよ」  ため息まじりにリューズが言うと、ヘンリックは意外そうに顔をあげた。 「どういう意味だ?」 「そのままの意味だ。女の後を追うなど、みっともないぞ。まして相手は10年も前に逝っている。お前のことなんか待っていないさ」  ぶつぶつとリューズが言うと、ヘンリックは破顔した。声をたてて笑う盟友を、リューズは気にくわないまま見守った。 「俺もそこまで腑抜けてはいない」  机の上に瓶を戻して、ヘンリックは呟いた。 「そうだといいがな」  フンと鼻で笑って、リューズは応えた。 「心配かけてすまないな」  ヘンリックはまだ笑っている。リューズは面白くなかった。 「暗殺師たちは今、どこかの止ん事無き身分の客に雇われているとかで、北方の狩猟場から姿を消しているそうだ。今の所、湾岸の者の名は聞こえていない。お前の女を殺した連中が、お前の息子たちまで殺そうとしている訳ではないだろう」 「だが、湾岸に近づけば危険だ。バドネイルは自分たちの血を引く正妃の子に、額冠(ティアラ)を継がせたがっている。権力を望もうが望むまいが、ヘレンの息子には命の危険がある」 「自分から遠ざければ安全ということもあるまいよ。そもそもお前の身から出た錆だ。側に置いて守ってやるのが筋というものだろう。お前が辛いかどうかなど、生まれてきた子の知ったことではない。我が子に甘えるのも、ほどほどにな!」 「耳が痛い」  薄笑いして目をそらし、ヘンリックは窓の外へと視線を向けた。  あきらめて、リューズは何も言い返さないことにした。リューズが言っていることの意味は、ヘンリックも良く分かっているに違いない。なにしろ、リューズは今まで、ヘンリックと顔を合わせるたびに、同じ説教を繰り返してきたのだ。  ヘンリックは、自分の気持ちに不器用ではあるが、馬鹿ではない。それだけの年月をかけても解決できない想いが、ヘンリックの中にあるということだろう。リューズは、死んだ女の冥利を思った。  「死の臭いばかりだ」  突然、ヘンリックがぽつりと言った。リューズは首をかしげた。 「北からの暗殺師は、次は誰に毒を盛るのだろうな。男か、女か、どこかの王族か、商人か。もしかしたら、この俺にかもしれんな。あるは、リューズ、お前なのかも」  水平線を見つめたまま、ヘンリックは独り言のようにぼんやりと言った。リューズは笑った。 「毒では俺を殺せぬよ」  机から、水晶の小瓶を取り上げて、リューズはその蓋を開いてみた。まるで、香油の壷を開いたように、みずみずしい花の香がこぼれた。それが、猛毒アルスビューラの匂いだとは、とても信じられない。 「これが死の臭いか? 甘美なことよ。異国から手に入れた香油だと偽っても、誰も疑うまいな」 「お前からの贈り物にはせいぜい気をつけるように、皆に言ってやった方が親切かもしれんな」 「気にくわない相手を始末するのに、俺はそんな気の長いことはしない」 「そうだろうとも」  にやりとヘンリックが笑った。リューズも、それ応えて薄く笑った。  「知っているか、ヘンリック。毒殺は女の好むやり方なのだそうだ」  リューズは瓶に蓋をして、深紅の猛毒を水晶の中にとじこめた。ヘンリックが椅子の肘掛けに頬杖をつく。 「この一瓶はくれてやる。お前の正妃を問いただしてみるがいい」 「セレスタがヘレンに毒杯をあおらせたと思っているのか?」  正妃の名を口にして、ヘンリックは重苦しいため息をついた。セレスタ・バドネイルとは、婚姻によって、ヘンリックに湾岸に出入りするために必要な身分を与えた大貴族の娘だった。ヘンリックが族長になった後は、その正妃に収まっている。愛妾ヘレン・トゥランバートル亡き今、ヘンリックの後宮でさぞかし居丈高に暮らしていることだろう。 「さあ…? 十年も前の事の真偽など、確かめようもないことだ。そんなことは、どうでもいい。お前に必要なのは復讐だ。愛娘が死ねば、バドネイルの落胆はかなりのものだろう。お前も十年来の恨みにけりをつけられる」 「悪い冗談だ。証拠もないのに、セレスタに何の罪がある」  リューズの残酷さを咎める口調で、ヘンリックが言う。 「女の換えは、いくらでもきく。だがお前は一人しかいない。お前がそうやって、いつまでも腑抜けていると、部族のために良くない。正妃にこれを飲ませたら、何もかも忘れられるかもしれないぞ。命を購えるのは、命を以てだけだ」 「お前の主義はよく分かった。だが、海辺には海辺のやり方がある。気持ちだけ受け取っておくさ、リューズ」  眉をひそめて、リューズはヘンリックの真面目腐った顔を睨み付けた。 「…いつまでも子供のような綺麗事を信じて、寝首をかかれないように気をつけろ。お前のことを邪魔だと思っている連中には事欠かないだろう。毒死しながら、こんな事になるなら、先に殺しておくのだったと悔いても知らんぞ」 「そうなるなら、それも俺の運命だろう」  悟ったような事を、ヘンリックは口にした。リューズは人の悪い笑みを浮かべた。 「ふぅん…なるほど。お前はそれを期待しているわけか。同盟は残念だったな。戦死する機会を失った」  ヘンリックは何も答えず、肩をすくめた。リューズは笑って、さらにヘンリックをからかってやる事にした。 「まあ…そう気落ちすることもない。どうせまたすぐに戦は起こる。その暁には、再び盟友として時を過ごそう」 「戦いには飽きたんじゃなかったのか」  ヘンリックが苦笑する。 「飽きたさ」  窓の外の海を見やって、リューズは歌うように言葉を継いだ。 「血を流すのも、下衆な連中の白い首を斬るのも、もう、うんざりだ。俺は息子たちや部族の民と静かに暮らしたいだけだ。我が子を死地に追いやるのも真っ平。可愛げのない貴族の女どもを抱くのもいやだ。さっさと死んで楽になりたい。お前と同じだ」  遠くの水平線に、白い帆を満帆に張った船が現れた。遠い世界から戻った船を迎える銅鑼の音が、港から風に運ばれて聞こえてくる。リューズはそれに耳をすまし、しばし沈黙した。  「だが、いま俺が斃(たお)れたら、この額冠(ティアラ)を引き継ぐ者が誰もいない。息子たちは、みな宮廷育ちで軟弱だ。俺がいなくなれば、すぐにでも、欲にまみれた白い豚どもが押し寄せてきて、俺の部族を喰い散らかすのは目に見えている。連中は砂漠の富を盗み、女を漁り、魔導師たちを砂牛同然の奴隷として扱うだろう。我が部族が砂漠に王国をつくる以前の昔、そうだったようにな。好むと好まざるとに関わらず、俺は家長の血脈に連なる者として生まれ、額冠(ティアラ)を受け継いだ。部族を養い、富ませるために働くのが俺の運命だ。勝機があれば、いつでも兵を挙げる。好機を見逃せば、次には自分たちが追い立てられる番なのかもしれんぞ、ヘンリック。これは、お前とお前の部族にとっても同じ事だ」 「人質にやった息子が死んでもいいのか」  静かな言葉で、ヘンリックが言った。リューズは視線を床に落とした。 「スィグルは誇りあるアンフィバロウ家の血を受けた俺の子だ。部族と運命を共にさせる」  言いながら、リューズは胸が疼くのを感じていた。トルレッキオへ向けて発つため、タンジールを辞す時の我が子の顔が脳裏に浮かんでくる。強がって笑ってみせる顔が哀れだった。健気な子だ。支配者の血族にふさわしい覚悟と品位がある。なぜ、よりによって、天は哀れなあの子を同盟の生け贄に選んだのかと、リューズは我知らず、ため息をついた。  「お前、俺のことを馬鹿にはできんな」  ヘンリックが低く声をたてて笑った。 「父親らしい事のひとつもしてやらないのでは、そう遠からず息子に見限られるぞ」 「うるさい。気味良さそうに人の揚げ足をとるな。スィグルは心の優しい子なんだ。俺を見限ったりしない」  むきになって、リューズは反論した。 「親馬鹿なことだ。我が子に甘えるなと人に説教を垂れておいて、お前はどうなんだ。心配なら心配だと正直に言えばいいだろう」  ヘンリックが笑いをかみ殺したような顔をする。リューズがその顔をじろりと睨み付けても、ヘンリックは一向に動じる気配もない。 「心配だ」  リューズは腹を立てながら、正直に答えた。 「心配するな。よほどの事がなければ、俺は同盟を反古にするつもりはない。お前たちが勝手に先走ったりしなければ、戦などそう簡単に起こらん。どこも当分は兵を貯えるさ」  リューズをなだめるように、ヘンリックは説明してきた。リューズは憮然として、それを聞いた。どうだか、分かったものではない。 「それに、いざという時になっても、イルスは黙って殺されるような玉じゃない」  ヘンリックはずいぶんと余裕がある様子だ。リューズはまるで面白くなかった。 「足掻いてみせるのはみっともないぞ。王族にはそれなりの死に方がある」 「イルスは王族じゃない。俺とヘレンの子だ。いつでも思うように生きればいい」 「馬鹿な。額冠(ティアラ)を着けて生きる者に、自由などあるものか」 「邪魔になるなら額冠(ティアラ)など捨てればいいさ。そうなったところで、困るのは俺だけだ。人質になるのも、イヤなら断ってしまえばよかったのに、根っから不器用な子だな」 「ヘンリック、お前は、頭がおかしいんじゃないのか?」  あきれ果てて、リューズは力無く友を罵った。ヘンリックはそれを気味良さそうに見ている。リューズには、この、わけの分からない平民出の男の、奔放なところが、ひどく羨ましかった。自分ならば、到底、口に出せないようなことを、ヘンリックは平気でペラペラと話す。親が子の幸せを願うのは、人として当然の本能だ。リューズも我が子可愛さに目がくらまないわけではなかった。だが、額冠(ティアラ)を継承した以上は、親である前に族長でなければならない。それがアンフィバロウ家の家長である者の責任というものだ。血の伝統を背負っていないヘンリックには、それが分からないだけだ。  「お前、虜囚になっていた子供と女を取り返したときは、えらく喜んでいたじゃないか。死んでいてくれた方がマシだと思うなら、なぜ探したりしたんだ。放っておけばよかったんじゃないのか。死んでいた方が面子が立つんだろう」 「生きているかもしれないのに、放っておけるものか」  笑っているヘンリックに噛みついてやりたい気分で、リューズは答えた。 「お前だって、面子よりは子供が大事なんだ。いいかげん認めろ」 「余計なお世話だ。人のことより、自分の息子のことでも心配しておけ。勝機があれば俺は兵を挙げるぞ。せいぜい憶えておくんだな」  手をつけていなかった銀杯の葡萄酒を飲んで、リューズははき捨てた。香り高い内陸産の葡萄酒はうまかったが、酒気にあてられて酔いそうだった。いまいましい気分になって、リューズは杯を机に戻した。 「イルスは悪運が強い。同盟が崩れたら、他の連中を引き連れて、さっさと抜け出して来るに決まっているさ。その時は、領境の近いお前の領地へ向かうだろうから、せいぜい無事なうちに拾ってやってくれ」  ヘンリックは、息子が生き延びることを疑いもしていない様子だ。 「ふん。そう遠からず、そんな事にならねばいいがな」 「不吉なことを言うな」  銀杯に葡萄酒を注いで、ヘンリックがびっくりしたように、リューズの減らず口を押し返してきた。  「いやな噂を聞いた」  アルスビューラの瓶を見おろして、リューズは別の話に水を向けた。 「北の毒殺師どもを雇っているのは、山エルフだ」  出所の確かでない噂として、隊商(キャラバン)の者たちが伝えてきた話だった。 「山の族長が、正体のわからぬ病にふせっているとか。食事も受け付けず、意識も朦朧とするほどだそうだ。血反吐を吐いて悶絶する姿を見たという者までいるらしい」  ヘンリックが目を細める。その青い目の奥で、ヘンリックが自分とほぼ同じ計算をしているのを、リューズは見て取った。銀杯の葡萄酒で喉を湿らせてから、ヘンリックは注意深く言葉を継いだ。 「…フラカッツァーでの族長会議では、健在のように見受けたが」  あれからまだ、二度ほど月が満ちただけだというのに。 「ずいぶん急な病だ」  含みのある言葉を、ヘンリックは独り言のように呟いた。 「正妃が付ききりで看病しているのだそうだが…病状は悪化するばかりだとか」 「…族長の死後、額冠(ティアラ)は誰が継承するんだ?」 「長子だろう。山の者たちはいつも長子に相続させる」 「正妃の子か…あるいは、ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネスだな」 「性悪な餓鬼よ」  リューズは噂に聞く神殿の子供のことを思った。神聖神殿の大神官の秘蔵っ子で、このままのうのうと暮らしていれば、山エルフ族の王権のようなちっぽけなものではなく、大陸全土を支配する純白の玉座が待っているというのに、なにを好き好んで神官職を捨て、聖楼城を去ってまで、人質などにおさまったのか。 「横から現れて額冠(ティアラ)を奪おうとする。まるで昔のお前のようだ、ヘンリック」 「俺とは立場が違う。神籍を捨てて何の得がある。同盟の人質には、自ら志願したそうだが、いかにも変わった子供だな」  ヘンリックが面白そうに言う。 「お前が同じ立場だとしたら、人質に志願する理由があるものと思うか?」  リューズは自分と同じ興味を持っていそうな同盟者に問いかけた。 「さあな。山エルフの連中は形式にこだわる。族長位につくには、件の学院で学び、大法官をつとめあげた経歴が必要なのだそうだな。族長の額冠(ティアラ)に近づきたければ、まずはそこからだろうが…人質になれば、まず間違いなく学院には入れる」 「ブラン・アムリネスともあろう者が、学院の門をくぐるのに、そんな回りくどい手順を踏む必要があると思うのか?」  にっこりと機嫌良く笑って、リューズは尋ねた。ヘンリックが呆れたような苦笑を見せて、微かに首を振り、芝居がかったリューズの問いに答えた。 「未だに額冠(ティアラ)を持っていないらしいじゃないか。部族の領内に所領もなく、地位も身分も官職もない。あれではただの客分だ。ブラン・アムリネスには何もない。あるのは、額の聖刻だけだ」 「それも、厳密にはもう当てになるまい。神殿を捨ててきたのだからな。何をするにも頭を下げて頼むほかはない。気位の高い山の血を引いているなら、さぞかし気の重いことだろう。まして白亜の神殿で暮らした身なら、なおのことさ」  リューズは満足して頷いた。ヘンリックが、ふふんと笑う。かつて、湾岸の大貴族たちに取り入らねばならなかったこの男にとっても、その苦痛の味わいがどんなものかは、かなり馴染みの深いことだろうと、リューズは思った。 「ブラン・アムリネスは族長になると思うか? 俺たちの盟友、あるは敵に?」  頬杖をつき、リューズは自分の耳朶を華やかに飾る、赤い血の滴のような石の房を弄んだ。 「族長位におさまるには、ブラン・アムリネスは若すぎる」  ヘンリックの声は慎重だった。しかし、その言葉とは裏腹に、否定の響きが感じられなかった。ヘンリックは勘の良い男だ。知識に凝り固まった学者面の政治屋が、考えあぐねて出した答えよりも、ヘンリックの咄嗟の思いつきのほうが、いくらも面白く、賭けを打って出る甲斐もある。ヘンリックが自分と同じことを考えているらしいと悟って、リューズは上機嫌になった。 「俺は父の額冠(ティアラ)を受け継いだとき、15歳だった。ブラン・アムリネスはいま14歳だ」 「大神官の後ろ盾がついた族長か。恐ろしいな」  茶化すような口調で、ヘンリックは言った。 「即位できればの話だ」  リューズはにやっと笑った。 「女は毒を使うのでな。油断できぬ。山の正妃は我が子可愛さに目がくらんだようだ。長年連れ添った夫を裏切るとは、女は恐ろしい生き物よ」 「アルスビューラか」  ヘンリックが苦々しく、その名を口にする。 「解毒剤はあるのか」 「そんなものはない」  身も蓋もない答えを嬉しげに返すリューズに、ヘンリックがまた苦笑した。 「まさか、神殿の子を後押ししてやるつもりなのか、リューズ」 「いいや。ブラン・アムリネスには死んでもらった方が都合がいい。同じ戦うにしても、部族の仇は暗愚なほうが望ましいからな」 「いやにブラン・アムリネスを気に入っているのだな。神殿嫌いなお前が、珍しい」 「このまま山エルフの族長が死ねば、そおらく内乱が起こる。勝機だな、ヘンリック」  ヘンリックがにやっと笑い、酒杯を空けた。 「自分の子が可愛ければ、先にブラン・アムリネスが死んで、戦機が去るように祈れ」  席から立ち上がるヘンリックを見上げて、リューズは薄く笑った。 「そんなことは祈ってもむだだ。自分の血を引く子供を、神々が見捨てると思うのか」 「リューズ、知らないのか? この世に神などいない」  冗談めかせて、ヘンリックが答える。それを聞き、リューズはにやりと笑った。 「そうか。なるほど。お前は異端者だ。神聖神殿にお前を売れば、いくらになるかな」  リューズはヘンリックがどう答えるか楽しみだった。 「…値切っても無駄だ、と、言ったはずだ」  静かに答えるヘンリックの顔を眺めたまま、リューズは笑い、ゆっくりと立ち上がった。そして、旧来の友に右手を差し出しす。 「また来年の同じ日に会おう、ヘンリック。あるいは、山の都フラカッツァーで、そう遠くない、いつかの日に」  ヘンリックがリューズの右手を握った。 「帰路の無事を」  ヘンリックの声に被さるように、港からの銅鑼の音が鳴り響いた。隣大陸からの貿易品が豊かであったことを、海都サウザスに知らしめる銅鑼の音だ。誇らしげに打ち鳴らされる銅鑼の響きに耳を傾け、リューズはおそらく一生見ることのない、海の向こうの世界を思い描いた。