011:練習試合
翌朝、イルスは惰眠をむさぼっていたスィグルを、布団から蹴り出さねばならなかった。学院で迎える最初の朝は肌寒く、眠り足りない同居人は、部屋を出るまでの間、ずっと休みなく文句をいい続けたが、イルスはそれを無視した。
「これは名誉の問題だと思うから言わせてもらうけどさぁ」
不満を絵に描いたような不機嫌な表情で、スィグルが抗議してくるのを、イルスは無言で聞きながら歩いた。
朝食をとった食堂から、訓練場のある地階へと下っていくところだ。行き違うのは金髪に白い肌の山エルフばかりだが、そろそろ、その状況にも慣れ初めている。
ここは海の見える故郷の屋敷ではないし、口をきく相手は全員、神殿が教え広めている共通語で話す。イルスは、いつまで人質として留め置かれるのかわからない以上、それに文句を言っても始まらないと割り切ることにした。ここは海から遠くはなれた異郷だ。順応すべきところは従うが、しかし、どうしても譲れないものもある。
剣技を磨くことと、体を鍛えることは、立って歩き始めた頃から、当然の義務として教えられてきた。この石造りの学寮で暮らしていても、それを変える必要はないとイルスは考えていた。自分から剣術を学びたいというなら、それは、同居人の黒エルフも同じ義務を負っているということだ。
「僕の髪が長いのは、部族の習慣なんだよ。黒エルフの男は戦士だろうが官吏だろうが、みんな僕と同じように髪をのばしてるし、長衣(ジュラバ)を着てる。当たり前なんだよ、あ・た・り・ま・え!」
イルスに追いすがって、スィグルが訴える。
「そんな格好で剣が振れるならやって見せてくれ」
にべもなく言い、イルスは廊下の奥にあるはずの、訓練場を目指した。
スィグルは、薄緑の絹のシャツに、革のチュニックを重ねた、山エルフ風の衣装を着ていた。この学院の制服だ。授業が始まる前の休暇の間は、服装は自由ということになっているので、敢えてこの服を着る必要はないのだが、スィグルは丈の短い衣装を一着も持っていなかったのだ。
長衣から動きやすい服装に着替えて、華やかな装身具を外し、背中まで届く長い黒髪をひとつに束ねると、さすがのスィグルも少年に見えた。なまじっかな少女より整っている顔立ちはどうしようもないが、この方がいくらもマシというものだ。
「授業がはじまったら、どうせ着なきゃならないんだ。今から慣れろよ」
イルスも、つき合いで学院の制服を着ていた。訓練用の服も故郷から持ってきてはいたが、ひたすら文句を言い続けるスィグルを牽制するためには、妥協してやるほかないだろう。異民族の衣装に身を包んだ自分の姿を鏡で見ると、確かに妙な気がするが、動きやすさの点では、さほど問題がないようだ。
「言っておくけど、僕は部屋では長衣(ジュラバ)を着るからね」
「好きにしろ」
腹立たしそうに言うスィグルがおかしく思えて、イルスは笑いをかみ殺した。
訓練場の入口には、刃を入れていない訓練用の剣を脇に抱えた山エルフたちが、たむろしていた。彼らは、そばを通り過ぎていくイルスとスィグルに、敵意からか好奇心からか判別のつかない視線を送ってきたが、イルスはそれを無視し、スィグルはおしなべて自分より長身な山エルフたちを不満げな目で睨み返した。
訓練場の扉を開くと、明かり取りの小窓がいくつも開いた部屋が現れた。壁には朝だというのに篝火が焚かれている。床には柔らかい砂が敷き詰められており、広々とした室内の思い思いの場所で、生徒たちが鍛錬に励んでいた。
イルスとスィグルが室内に入ってくると、一瞬、あたりが静まり返った。あまり良い種類の沈黙とは言えない。ちくちくと肌を射す、好意とはほど遠い視線を感じながら、イルスは室内を見渡した。
「おはよう。今日は制服なんだな」
背後から声をかけられ、イルスは振り向いた。扉のすぐ横に、シュレーが立っていた。山エルフの生徒たちを、取り巻きのように連れているが、シュレーが彼らと親しいようには見えなかった。
シュレーがイルスに話しかけたことに、山エルフたちはかすかに腹を立てているようだった。しかし、シュレーはそれを意に介さず、一人、取り巻きの群れを抜けて、イルスとスィグルの方に歩み寄ってくる。無駄のない所作は大仰でこそなかったが、神殿の者に特有の、厳かな気配が見えかくれしている。
「元気そうでよかった」
スィグルの顔を見て、シュレーは言った。肩までで切りそろえた金髪を、今日はひとつに束ねている。シュレーのほぐれた前髪の間から、神聖神殿の一族であることを示す、赤い刻印が透けていた。
「世話になったらしいですね、猊下」
いつもの愛想のいい声とはうって変わって、スィグルは硬質な冷たい響きのする声で言った。シュレーが薄く笑う。
「私はもう猊下ではないよ。知っているんじゃないのかい」
「でもみんな、そう呼んでる」
顎をあげて、スィグルは不機嫌そうに言う。
「何度言っても、直してくれないんだ。いちいち言うのも飽きてしまったんだよ。でも、知っての通り、今の私は山エルフの王族のひとりだ」
「僕らは、宮廷序列からいうと同等な身分てことだね、猊下」
「そういうことだよ、レイラス」
スィグルを洗礼名で呼んで、シュレーは困ったように笑った。
「鍛錬に来たのか」
シュレーが細身の剣を握っているのに気付いて、イルスが言った。シュレーは意味有りげに苦笑し、頷く。
「鍛錬にもならないけどね。みんな遠慮して、負けてばかりだ」
ちらりと取り巻きのほうを気にして、シュレーは声をひそめる。
「よかったら相手になってもらえないかな」
「冗談だろ。そんなのゴメンだよ」
ろくに考えもしていない様子で、スィグルが拒否する。シュレーがまた微笑んだ。
「君は白い卵が嫌いなんだったね」
「あんたのご先祖が考えた下らない伝説のおかげで苦労させられてる」
「シュレー、得物はなんだ」
スィグルの言葉を遮るように、イルスは手短に尋ねた。スィグルが大仰に驚き、イルスの顔を見上げてきた。シュレーまでが、虚を突かれたように推し黙り、イルスに顔を向ける。
「本気で手あわせする気なのか? イルス、どうかしてるよ。だいたい、今日は僕に剣術を教える約束だっただろう。だからろくに寝てもいないのに、こんな馬鹿みたいな服まで着込んで、やって来たんじゃないか!」
早口に抗議するスィグルの顔を、イルスは黙って押し返した。
「寝てないのは自分のせいだ。一勝負する間くらい待てるだろうが。その歳になるまで剣を仕込まれなかったんだ。あとほんのちょっと待つくらい同じ事だ」
深く考えずにイルスは抗議した。
従軍した兵たちから、山エルフの使う戦斧の攻撃は強烈だと噂に聞いていた。『左利きのヘンリック』と呼ばれ、異民族にも恐れられていた海エルフの族長でさえ、金髪の兵士が使う戦斧攻撃のために深手を負ったことがあるのだ。修行のためと称して師匠のもとに遣わされる前、まだイルスがほんの子供だったころに、父親の背中に残っている斧の傷を見たことがあった。使い手として名を轟かせる父の、肩胛骨を割ったという武器と、一度対戦してみたいと思っていたのだ。シュレーがそれを使うかどうかはわからないが、山エルフの血を半分引いているというなら、まるで期待できないわけでもないだろう。
「イルス…君がそんなこと言うなんて。僕、傷ついたよ」
上目遣いになってスィグルは恨み言を言った。
「……先約があるみたいだな。私は遠慮しておこう」
薄く微笑して、シュレーは引き下がろうとした。
「変な気をつかわなくていいよ、猊下。イルスは強敵を求めてるらしいから、せいぜい気をつけるんだね」
刺すような声でシュレーを引き留め、スィグルはいかにも悔しそうな顔をした。いつも底はかとなく勝ち誇ったような顔をしているスィグルが、そんな顔をしているのを見ると、イルスは何かとんでもないヘマをしたような気分になった。
「勝負がついたら、約束通りお前に教えるよ」
「君がボロボロに負けてなければね。もし万が一そうなったら、そっちの猊下に頼んだ方がマシかもしれないじゃないか。そんな畏れ多いこと、頼まなくてすむように期待するよ、まったく」
じろりと横目でイルスを睨み付け、スィグルは砂を踏んで部屋の壁際に歩み去った。イルスがため息をつくと、シュレーが苦笑した。
「扱いやすい相手じゃないな」
「負けたら何を言われるかわかったもんじゃないぜ」
肩を落として、イルスは独り言のように呟いた。
「でもそう簡単には勝てないよ、フォルデス」
穏やかに微笑みながら、シュレーが言うので、イルスは意外な気分で対戦者の緑の目を見つめ返した。
「槍か戦斧が望みだけど、剣も一通り使える。君にあわせるよ」
イルスはしばらく無言で、微笑む相手の真意をはかり、やがて納得して微笑んだ。同居人と同じく、神籍の猊下も、見た目で判断してはならない相手のようだった。
「お前は戦斧だ。俺は剣を使う」
「いいね。名にし負う海エルフの撃剣、受けて立とう」
白い歯を見せて笑うシュレーの顔は、まるで神殿の壁画に描かれたモザイク画の天使のように清らかだった。
「私の技は神殿仕込みなので、全て迎撃用だ。だから先制攻撃の作法は知らない。君から来てくれ、フォルデス」
長い柄の先に、見事な湾曲を描く三日月のような刃をつけた戦斧の台尻を、シュレーは静かに砂地に降ろしていた。神殿の一族の血を引くシュレーの容姿はどことなく神々しく、そうやって立っていると、杖を持って光臨した天の使いのようにも思える。
鞘から抜いた剣だけを、イルスは左手に握っていた。故郷から持ってきた愛用の剣は、本来両手持ちの剣だが、技が熟練すれば片手でも使えるように作られている。盾は持たないのが海エルフの常だ。功撃と後退のくり返しで敵をかわし、同時に複数の相手と剣を交えるのが、部族に伝わる戦い方だった。
師匠から学んだ戦い方に、迎撃というのは存在しなかった。海辺の戦士が身に付けている迎撃法は、相手の攻撃をかわすことだけだった。対戦者に攻撃する機会を与えず、自分からの攻撃に終始するのが、最も戦士らしい戦い方だと教えられてきた。
そして、イルスはそれを疑ったことはない。
剣の柄を両手で握り直し、イルスは十数歩先に立つシュレーの顔を見た。訓練場に居合わせた山エルフたちは、みな手をやすめて、この練習試合を見物するつもりのようだ。
スィグルが腕組みして壁にもたれ、下らないものでも見るような目をして、こちらを眺めている。
「本気でやるか」
構える気配のないシュレーに、イルスは確かめた。
「君が本気かどうかは、最初の一撃で判断しよう」
静かな微笑をたたえたまま、シュレーは答えた。イルスはにやりと笑った。食えない相手だ。血の中に潜む戦闘民族の性質が、ふつふつと湧き上がるのを、イルスは感じた。剣を握る手に力がこもる。手加減するのは難しそうだった。
剣を上げるのと同時に、イルスは砂を蹴って走り出した。その瞬発力の早さに、試合を見ていた誰もが驚きの声をあげたが、イルスは戦斧を握り直すシュレーの目だけを見ていた。
跳躍し、シュレーの眉間を狙って、イルスは最初の一撃を打ち込んだ。鋭い金属音が鳴り、まともに食らえば頭蓋骨を砕きかねない一撃を、シュレーの戦斧が受けた。装飾の施された戦斧の柄から火花が散り、シュレーの白い顔に振りかかる。
攻撃の重みで後退したシュレーの間近に、イルスは着地した。打ち合った武器の向こうで、シュレーが白い顔を歪めて笑った。イルスは、この高貴な少年が笑うのを、初めて見た気がした。
「君は高く跳ぶなあ…」
竜が舌なめずりをするような声で、シュレーは言い、戦斧を梃子に使ってイルスの剣をはねのけようとした。しかし、シュレーが振り下ろした戦斧のすぐ脇をすり抜け、イルスはシュレーの背後に回っていた。
とびのいて振り向いたシュレーの顔は、もう笑っていなかった。シュレーが体勢を立て直す間もなく、イルスは第二撃のための跳躍にはいっていたのだ。
ギィンと鈍い音が鳴り、左肩にむけて振り下ろされたイルスの一撃を、シュレーの戦斧が受けとめた。
「くっ……」
シュレーは小さく呻いた。押し返されるのを待たずに飛び退き、イルスは手薄になった下段に、三度目の攻撃をふりおろした。
戦斧を砂に突き、シュレーはそれも辛うじて防いだ。武器が擦れ合い、けたたましく軋む音が鳴った。イルスは相手の技量に感心した。師匠のように優雅にとはいかないが、とにかく、この神官は、イルスの立て続けの打ち込みを三度までも防いだのだ。
深々と砂に埋もれた戦斧を引き抜いたシュレーは、肩で息をしていた。しかし、その顔はまた微笑していた。
「なるほど……君の同胞が三倍の数の兵をほふったというのも頷ける」
「山エルフの兵が、どうやって俺の親父を撃ち取ったかわかるか」
気分の昂揚を抑えながら、イルスは口を開いた。
「君たちの技には補えない欠点がある。…跳躍だ」
間合いをはかるイルスの目と、長剣の切っ先をせわしなく見比べながら、シュレーは息を整えつつ、楽しげに話している。
「跳躍した瞬間を、背後から狙えば簡単だよ、フォルデス」
「卑怯なやり方だな」
にやりと笑って、イルスは答えた。シュレーが目を細めて笑い返してきた。
「命のやりとりに卑怯もくそもない。生き残った方が勝ちだ」
声をひそめて呟くシュレーの言葉には、その清らかな顔からは想像もつかないような凄みがあった。イルスは、対戦者が面変わりするのを間近に見て、ある種の陶酔を感じた。強敵を前にするとき、イルスはいつも同じ感覚を覚える。血と戦いを求めるのは、海エルフなら誰でも持っている性だという。
剣を握る左手の肩から指先にかけて、戦闘の興奮が細波のようにおけおりていく。湧き上がる狂乱に身を任せそうになるのを押し止めて、イルスは剣を握り直した。
「跳躍は命がけだ。勝機がなければ跳ばない。跳躍中に斬られるのは剣士の恥だ」
「では、君の父上も肩の傷を恥に思っているだろう」
戦斧を構えると、シュレーはイルスの膝を狙って湾曲した刃先を振り下ろした。鋼の斧が自分の膝を砕く直前、イルスはそれを見計らうように跳躍した。回旋による攻撃の反動のため、シュレーの右肩は無防備だった。勝利を確信し、イルスはごくわずかに剣先をそらせた。攻撃を予知したシュレーの顔が不自然に振り向き、自分の右肩をかすめる両刃の剣を見送った。
ほとんど体重を感じさせない動きで、イルスは砂の上に着地し、振り下ろした剣を退いて、すばやく体勢をたてなおした。反動から解放され、振り向いたシュレーと目が合う。イルスは本能的な悦びのため、満面に笑みがこみ上げるのを止められなかった。
「……右腕が落ちたぞ、シュレー」
イルスが言うと、シュレーはにやりと笑った。
「片腕じゃ戦斧は振れないな」
「俺の親父の肩を割った兵士は英雄になれたのか?」
笑いながら、イルスは尋ねた。
「知らないのかい」
左手だけで戦斧を握り、シュレーはイルスとの間合いをつめた。
「その場で君の父上にしとめられたんだよ」
声高にいうシュレーの言葉に、試合を見守っていた山エルフたちが騒然とする。
「戦斧で肩を狙ったのは馬鹿だった。君たちは片腕でも戦える。そうだろう」
言い終えたあと、一呼吸してから、シュレーは左腕だけで戦斧を構えた。イルスの腹をねらって、戦斧の突きが繰り出される。間近からの攻撃をかわすため、イルスはよろめいて砂地に手をついた。戦斧を退き、さらにイルスの腹部を狙うシュレーの攻撃をかわすのに係り切りになると、イルスには攻撃に転じるタイミングが見つからなくなった。
しかし、何度目かの突きをすれ違うようにかわすと、イルスは戦斧の柄を左手で掴み、残った右手に握った剣を、シュレーの喉元に押しあてた。
冷たい鋼の刀身を喉に押しつけられたまま、シュレーがなぜか満足そうにため息をつき、イルスの顔を見おろす。
「どうやら死んだらしい」
「そういうことだ。俺の勝ちだな」
笑い返して、イルスは言った。
「一騎打ちなら君たちは山エルフに対してほとんど無敵だ」
「俺は5人までなら同時に打ち合える。何人まで相手にできるかが、海の者の自慢なのさ」
剣を退いて、イルスはシュレーを解放した。
「なぜそうなったか考えたことは?」
薄く微笑みを見せて、シュレーは汗ばんだ顔をイルスに向けた。
「………さあ?」
師匠はそんなことをイルスに尋ねたこともないし、教えてくれたこともなかった。
「君たちの兵力が、いつも敵のそれより格段に少ないからだ。戦場に出れば、君たちはいつも、複数の敵から同時に攻撃される」
静かに言うシュレーの顔を良く見るために、イルスは目を細めた。
「君たち海エルフは、他の部族に比べて、格段に数が少ない。それを補って血を残すために、君たちは自分たちの中に、特殊な体質をつくった。…狂乱の戦士の血だ。そのからくりが、君の中にもちゃんと隠されているとは、驚いたよ。普段はおとなしい君でさえ、剣を握るとあんな目をするなんてね」
面白そうに言うシュレーに、イルスは苦笑を返した。
「物知りなんだな」
「残念だけど、神殿は何でも知ってるんだ」
シュレーは目を細めて言った。
「ついでに、もうひとつ、君が知らないらしいことを教えよう、フォルデス。君の父上が左利きになったのは、件の兵士に肩を割られて以降のことだよ。それまでは両手利きだった。君が左利きなのは、父上に似たせいじゃない」
軽い衝撃のため、イルスは一瞬だけ目を見開いた。
「父上にこだわるのは止した方がいい。君は君で充分強い」
「海エルフでは、一番強い戦士が族長になる。みんな族長には敬意をはらってる。その族長がたまたま実の父だっただけだ」
イルスはなぜか責められているような気がして、思わず強い口調になっていた。
「親が子に何かを伝えられるなんて妄想だよ」
神殿の者に相応しい微笑みを見せて、シュレーが言う。
「お前は孤独なやつだ」
声を落として、イルスが呟くと、シュレーはなにも答えずにただ微笑した。
「昨日の決闘騒ぎ、丸くおさめておいた。君たちへの処罰はない」
「……すまなかった。二度と世話にならない」
イルスは呟き、砂地に視線を落とした。もともと、巻き込まれただけとはいえ、ケンカを買った以上は同罪だという気がした。後味が悪かった。
「いつでも頼ってくれていい。心配しなくても、私が死霊になる前に借りを返してもらうから」
「…前にも聞いたと思うけど、どうしてそう、俺たちの世話を焼くんだ?」
イルスが目をあげると、シュレーと視線があった。
「そのほうが、君たちが不愉快な思いをしないで済むと思って」
「正直言って、俺はお前が親切なだけだとは思えない……いや、悪い…言い方がまずかった」
イルスは動揺して顔を擦った。うまい言葉が見つからない。
「私に、他にも目的があるように思えると言いたいなら、君は意外と鋭いよ」
シュレーは薄く笑っていた。その笑みが少し寂しそうなような気がして、イルスはますます自己嫌悪を感じた。
「君のような二心ない者と関わっていたいだけだ。誰かに無償で力を貸すと、自分がいくらか高尚な存在になったような錯覚を感じて、一時的に満足できる。要するに、君たちに感謝されると、気分がいいんだよ。…この説明で納得できたかい?」
シュレーの口調は自嘲的だった。イルスは小さくため息をついた。
「お前は俺には難しすぎるぜ。気難しいのも神殿仕込みか?」
「これは自前だ」
イルスは真剣に尋ねたのだが、シュレーはそれを冗談だと思ったようだった。
「イルス」
声をかけられて振り向くと、鞘を差し出して、スィグルが立っていた。
「勝負はついただろう」
微笑むシュレーに、スィグルは敵意のこもった眼差しを向けた。シュレーが静かに頷く。
「作戦を変えないと、勝ち目はなさそうだ」
「あきらめた方が賢いんじゃないかい。かなり圧されてたよ、猊下」
「そうでもないよ。今、圧されてるのは彼の方だ」
イルスを見て、シュレーはにっこりと笑った。スィグルがかすかに顔をしかめる。言い得た話だと思って、イルスは苦笑した。
「今夜、食事に付き合ってもらえないか。よかったら、黒エルフの友人も一緒に」
シュレーの提案に、イルスは肩をすくめた。
「お前には借りがあるから、俺はかまわない。スィグルがどうするかは、本人の顔を見ればわかるんじゃないのか」
「お断りだよ、猊下」
案の定、ぴしゃりと拒否するスィグルは、今にもかみつきそうな顔で敵意をむき出しにしている。
「それは残念だよ。どうせなら君の美貌を眺めながら食事をしたかった」
修辞的な言い回しで言い、シュレーは面白そうにスィグルを見つめる。
「悪いけど、他をあたってくれないかなあ。あいにく、坊主の白いケツには興味ないんだ」
「心配しなくてもいい。私には君よりずっと物静かで美しい妻がいる」
さらりと受け流して、シュレーはスィグルに微笑みを向けた。気を悪くしたのを認めたくないという顔で、スィグルが圧し黙る。
「気が向いたら君も来てくれ、レイラス。それで借りは無しにするよ。それがだめなら、いつか、もっと別の屈辱的な形で返してもらうことにしようか。君が女装して学院中の廊下を歩いてくれたら、私も君を助けた甲斐があったと納得できるかもしれないな。それとも、なにか他にいい案があったら教えてくれ」
歩み去りながら、シュレーは言い、こちらに軽く手を振って見せた。
「………僕は行かないよ。絶対行かないからな。なんて奴……なんて奴だ。なんて奴だ!」
怒りながら、スィグルはわなわなと震えていた。しばらく考えて、イルスはふと思いついた。
「なあ、スィグル、お前、シュレーにからかわれたんじゃないのか?」
「あれが本気じゃないって言いたいわけ? そんなわけないだろ。アレが奴の本性なんだよ!! なにが君よりずっと物静かで美しい妻がいるだ。ずっとって何だ。なんで妻なんかいるんだ。なんだかイライラするなあっ」
「…やっぱり、からかわれてるよ、お前」
苦笑を抑えて、イルスは忠告した。
「気晴らしに買い物でもしようかな。山エルフの貧乏貴族どもには手も出せないようなものをバンバン買ったら、腹いせになるかもしれない」
「お前は剣の稽古だろ」
「えっ!? 僕がこんなに落ち込んでるのに、稽古なんかさせる気なのかい!?」
「疲れて倒れるまで素振りすれば、腹いせになるぜ」
口をぱくぱくさせて言葉を選んでいるスィグルに、イルスは何度か頷いて見せた。
「素振り千回だ」
「…千回って言った?」
「言った」
スィグルはあっけにとられた顔で、イルスをただ見上げている。千回ぐらい当たり前だ。形はともかく、腕力をつけるところから初めなければ、スィグルの場合、話にならない。イルスは無駄な言葉は返さないことに決め、ただ黙ってスィグルを見おろした。
「わったよ、やりゃいいんだろ、やりゃあ!!」
ひとしきりわめいてから、スィグルは剣を握った。