007:荒野に佇(たたず)む者

 
「そこの長椅子にでも寝かせて」  居室のドアを開けて、シュレーはつかつかと奥のキャビネットに向かった。後から入ってきた海エルフは、ぐったりしたままの黒エルフを担いでいる。  言われたとおりに、海エルフは気絶している相棒を、長椅子の上に降ろし、ため息をついた。 「こいつが飯を食わないたちで助かった。まさか担いで階段を登ったり降りたりさせられるなんてな」  恨み言を言って、海エルフは長椅子の肘掛けに軽く腰掛けた。キャビネットから薬箱を取り出し、シュレーは戻ってきた。 「イルス・フォルデス・マルドゥークだ。くたばってる方は、スィグル…ええと…なんだっけな」 「スィグル・レイラス・アンフィバロウ」  シュレーが薬を選びながら助け船を出すと、イルスは納得したように頷いてから、ふと顔をあげた。 「なんで知ってるんだ」 「黒エルフ族が差し向けた人質は、第16王子のスィグル・レイラスだと聞いている」  黒エルフの容態を調べながら、シュレーは言った。特に目立ったケガはしていない様子だ。消耗して気を失っただけのようだが、意識を取り戻させてから、もっと詳しく診察したほうがよさそうだった。 「…ふうん。山エルフの連中は、みんな耳が早いんだな。俺よりよっぽど事情に通じてるらしい」 「同じ人質どうしだから」  ため息をついて、シュレーは付け加えた。海エルフのイルスがぎょっとした顔をする。そろそろ『猊下(げいか)』に戻らなければならないだろうと思って、シュレーは気が重かった。 「じゃあお前…」 「シュレー・ライラル・フォーリュンベルグだ。……ここの連中は、別の名前の方を気に入ってくれているみたいだが。君もそうかな」  気付け薬を黒エルフの鼻先に近づけながら、シュレーは自嘲ぎみに言った。  突然、イルスがシュレーの腕をつかんで、気付け薬をとりあげた。 「なにをするんだ」  驚いて、シュレーはイルスの顔を見上げた。 「こいつを起こすのはよせ。やっぱり連れて戻る」  イルスは慌てているようだった。ため息をつき、シュレーは肩を落とした。 「手当をするぐらい、気にしなくていい」 「いや、やめとけ。お前は目を覚ましてる時のスィグルを知らないから、そんな平気そうにしてられるんだ。こいつはな、白い卵から生まれたヤツが大嫌いなんだよ。今日のもめ事は、これで終わりにさせてくれ」  イルスは疲れた顔で説明した。 「どういう意味か…のみこめないんだが」 「あの喧嘩、確かに元々は向こうから仕掛けてきたんだけど、あそこまで騒ぎを大きくしたのは、こいつなんだ。かるく脅して済ませればいいのに、滅茶苦茶にしやがって………こいつ、どこかおかしいんじゃないかと思う。相手が白系種族だと、歯止めが効かないらしいよ」 「……なるほど。黒い卵から生み出された者としか、親しくする気はないってことか」  苦笑して、シュレーは納得した。 「君もそう思っているわけだね、フォルデス」  宮廷でのしきたり通り、シュレーは相手を洗礼名で呼んだ。彼らはお互いを名前で呼び合っているようだが、それは黒い卵に属する間柄ならではの特例なのかもしれない。身分が釣り合っていて、同じ年頃であれば、名前で呼んでも咎められはしないものだというが、シュレーはそれに慣れていなかった。 「俺は別に。正直言って、こっちに来るまで、本物の白系種族を見たこともなかったんだ。今までは敵だったけど、もう戦も終わってしまった。お前らがなんなのか、俺にはわからない」  困惑した様子で、イルスは腕組みしている。 「お前には、恩義があるし、気が合いそうだと思ったんだけどな。スィグルといい、お前といい、卵のカラの色がよっぽど気になるんだな。俺が気になるのは、お前が敵なのか味方なのかっていう事だけだ。だいたい、人が卵から生まれるなんて、あるわけないだろ? そりゃまあ、探せばそんな種族もいるかもしれないけどな」  自分でも何を言っているかわからないという様子で、イルスはうつむいて顔を擦った。口のうまいタチではないらしい。シュレーは静かに微笑した。 「騒ぎは内々におさめさせるよ」 「…どうやって?」  顔を上げ、イルスは不思議そうに目を細める。部屋の薄闇の中でも、海エルフ独特の青い目が、ぼんやりと光っていると錯覚するほど鮮やかだ。  しかし、その特徴的な目は生まれつき視力が虚弱だと聞いたことがある。半水棲種族である彼らは、耳の後ろに小さな鰓を持っていて、水中でもしばらく呼吸ができる。その目も、水中で物を見るのに都合がいいようにできているため、陸上では多少歪んだ像を結ぶのだ。イルスもおそらく、その特徴を備えているに違いない。  シュレーは自分の目で海を見たことがなかったが、それがイルスの目と良く似た色をしているのだろうと想像した。目の前にいる少年は、大陸の最果てからやってきたのだ。神殿支配が強く及ばない世界から。  「ここの連中は、額に赤い印のある者の言うことを、割と素直に聞いてくれるんだ。だから簡単だよ。心配しなくていい」  伏し目がちに、シュレーは説明した。明日の朝にでも、食堂での出来事を忘れるように学院の責任者に伝えれば、それで事は済むだろう。  「お前、どうして…そこまでしてくれるんだ?」  シュレーの顔を良く見ようとするように、イルスはまた目を細める。ランプの明かりだけでは、彼にはシュレーの顔がよく見えないのだろう。  「この学院では、君や、そこの黒エルフの立場は不利だと思うから」 「それが、お前になんの関係があるんだ?」 「さあ…わからない。でも、そうした方が、君たちは不愉快な思いをしなくて済むと思っただけだ」  イルスが本当に不思議そうに言うので、シュレーはなぜか惨めな気分になった。 「何も返せないけど、いいのか」 「神殿では見返りを求めるなと教えているだろう」 「それはおかしいだろう。恩義を受けたら、なるべく早く返せって俺の故郷では教えられるぜ」  イルスはびっくりした顔で言い返してきた。 「どうしてそう思うんだ?」  神殿の教えが行き渡っていないことに、シュレーも驚いた。 「だって…当たり前だろ。明日まで相手が生きてるかどうかなんて、わからない。死人に恩義は返せないぜ。死霊に借りをつくってもいいことがない」  話しているイルスの顔が真剣なので、シュレーは思わず吹き出した。 「その話、この学院ではしない方がいい。異端者だと思われたら面倒だよ、フォルデス。君たちの考え方はわかった気がする。でも、心配しなくても、私は明日も生きている」 「そりゃそうだろうけど……でも、なにか俺たちにできることがあったら言ってくれ」  イルスは居心地が悪そうにしている。誰かの世話になって、そのまま何も返さないのが、よほど妙に感じられるのだろう。神殿の教えからすれば、咎めなければならない事なのだろうが、シュレーはイルスの律儀さがおかしかった。  「それじゃあ、今度、食事に付き合ってほしい。一人で食べるのは退屈で」 「いいけど…お前、欲のないヤツだなあ。もっと別の事にしたほうが得だぞ」  黒エルフを抱え上げるために、その華奢な腕をとりながら、イルスが苦笑する。シュレーはそれに応えて微笑した。 「なにが貴重かは人それぞれだ。私は、誰かと食事をしたことが、ほとんどないんだ」 「"ほの暗き荒れ野に佇む者よ、汝の名は『孤独』なり"」  スィグルの体を抱え上げ、イルスは不満げな声で呟いた。 「…詩編だね」  軽い驚きのため、シュレーの声が上擦った。 「故郷にいる俺の師匠が好きで、何度も暗唱させられた。お前見てるとあれを思い出すよ。そういうの、あんまりいい事じゃないぜ。食事くらい、いつでも付き合うから、お前のその近寄りにくい感じを、なんとかしてくれ。俺のことは、イルスでいいから、お前の長い名前を憶えろなんて言わないでくれよな」  矢継ぎ早に文句を言い、よろめきながら出ていくイルスを、シュレーは黙って見送った。
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黒檀の扉が閉じると、部屋はとたんに静かになった。食事をするのを忘れていたことを、シュレーは思い出した。  誰か人を呼んで、食事を頼もうかと思ったが、やめた。執事のアザールも、黒エルフのスィグルに伸されてしまったことだし、今ごろは手当されて人心地ついたところだろう。一晩空腹を抱えているくらいは、大したことではない。  さっきまで黒エルフのスィグルが占領していた長椅子に腰をおろし、シュレーはため息をついた。  例の詩編は古いものだ。 「ほの暗き荒れ野に佇む者よ、汝の名は『孤独』なり……。汝、沈黙の剣もて千の都を滅ぼし、凍てつく穂先もて万の王国を滅ぼす。死霊を率いて荒れ野を渡り、とこしえに己の心の欲するところを知らず」  微かな声で詩編を暗唱し、シュレーは天井を埋める黒檀の木目を見つめた。  イルスがなぜ、この詩編を思い出したのか、シュレーは不思議だった。  シュレーはまさに荒れ野で生みおとされた。大神官の娘と恋に落ちた父は、彼女を連れて聖楼城から逃げた。神聖神殿の一族が婚姻をゆるされるのは、同じ血を持った者、額に赤い印が刻まれている者だけだったからだ。結ばれるためには、何もかも捨てて逃げる他に方法がなかった。  山エルフ族の族長となるべく教育され、期待をかけられていた父は、一人の女性のために、本当に何もかも捨ててしまったのだ。逃避行のさなかに身重になった母は、子供を産み落とすための場所も見つけられず、荒れ野でシュレーを産み落としたのだという。  その後の数年を、父と母は荒野で生きながらえた。そのころの事を、シュレーはうっすらと記憶している。荒野では、いつでも風が哭き、天幕の幌がはためく音が絶え間なく聞こえていた。母は出産のために体を壊し、天幕の奥から姿を現すことはなかった。シュレーは母に会うことを父から禁じられていた。初めて母の姿を見たのは、聖楼城に戻る決意を父が固めた時だ。  逃げ延びてから何年も過ぎた頃になって、なぜ父が母を神殿に返す決意をしたのかは知らない。天幕の奥から、布にくるまった母を抱き上げて出てきた時の父の顔を、シュレーは今でも憶えていた。怒りと苦悩で強ばった、生きたまま死んでしまったかのような顔。  母とシュレーを痩せた馬に乗せ、父は聖楼城の門を叩いた。祖父の大神官は狂喜してシュレーを迎え、その日のうちに額に深紅の刻印を刻んだ。しかし、それきり母にも父にも会っていない。日をあけずに母は亡くなり、父も死んだ。自殺だったという噂を聞いたことがあるが、父がなぜ死なねばならなかったのかは、今でもわからない。  イルスが呟いた詩編は、神殿に伝わるもので、その内容は預言だと信じられている。荒れ野に佇む者は、千の都を滅ぼし、万の王国を滅ぼすのだと、神殿の者たちは信じている。  シュレーがそうだと恐れる者たちもいた。溺愛していた娘の忘れ形見であるシュレーを、大神官はその権力で守り続けてきたが、どんな力をもってしても、神殿の柱の陰でささやかれる悪意に満ちた噂話を絶つことなどできない。  エルフ諸族に軍事同盟を結ばせ、人質を差し出させて、戦を終わらせるのだと聞いたとき、シュレーは神籍を返上する決意をした。本当は、もうずっと前からそれを望んでいて、たまたま軍事同盟に機会を与えられただけと言った方が正しいだろう。  長子相続を掟とする山エルフの習わしに則ると、現族長よりも、直系血族であるシュレーの継承権が勝っている。それを盾に、シュレーは山エルフの王族として名を連ねることを認めさせた。軍事同盟の人質になることも、自分から申し出たことだ。  権力には興味がない。自分が通り過ぎたあとに聞こえる、噂好きな連中の囁き声と忍び笑いから逃れたかっただけだ。  神殿とその教えを愛し、血を分けた氏族を護るために力を尽くすことを、皆に示せばわかってくれると、祖父である大神官はいつもシュレーに言い聞かせてきた。しかし、それは無理な相談だ。詩編が歌うような、沈黙の剣が自分の手にあったら、シュレーは何より先に、額に赤い印をつけた同族たちの命を奪う自信があった。  荒れ野に佇む者が世を滅ぼすと神殿の連中は信じている。荒野で生まれ落ちたシュレーは、確かにその詩編の指し示す者かもしれない。だが、神殿の連中はこうは考えなかったか?  大神官の娘を連れ去った男も、荒れ野からやってきたと。  聖楼城には、28本の望楼がある。虚空にむかって立つ、鋭い尖塔だ。父はその中の、もっとも背の高いものから身を投げて死んだ。いくつもの塔を寄り合わせたような聖楼城の谷底へ向かって、父の身体は落下し、白羽の紋章を刺繍した旗を掲げるための、青銅の柱に串刺しになった。  遺体がおろされたのは、7日もたった後だった。父恋しさのために、シュレーは遺体が安置された地下の小部屋に、苦労して忍び込んだ。死者を覆うための白い布を取ると、父の顔から目がなくなっていた。尖塔に曝(さら)されている間に、死肉をあさる鳥どもがつつき出したのだ。  地下室に響きわたる自分の悲鳴を、シュレーは今でも憶えている。  自分を守り育ててくれた大神官や、同じ血を分けた氏族に、恩義を感じていないわけではない。だが、それよりも強く、彼らが憎い。どうしても許すことができない。  ただ、それだけ。それが全てだ。たったそれだけのことが、今やシュレーの心を創る全てだった。