012:四部族連合

 
 執事が差し出した真鍮製のカギを、シェルは満面に笑みを浮かべて受け取った。 「ありがとう。これ、僕が自由に使っていいんだね?」 「はい、学院にいらっしゃる間は、お手元に」  山エルフの執事は、シェルにつられたのか、かすかに微笑み返してきた。 「君の名前は?」  シェルは背の高い執事の顔を見上げ、昂揚した声で尋ねた。 「ラザロと申します」  軽く礼をして、執事は答えた。 「僕は、シェル・マイオス・エリトゥリオ」 「存じております」  苦笑をかみ殺して、執事は答えた。すると、シェルはびっくりしたような顔をした。長くのばした金の巻き毛に、大きな緑の目をしたシェルは、生き生きと微笑んでいないと、まるで人形のように見える。シェルの日焼けしていない白い顔は、十三歳という年齢の割に子供っぽく、頬は丸く、金色の長い睫は微妙にカールしていた。  「ラザロ、僕がいつまでここにいなきゃいけないか、君は知ってる?」  特別な感情のない無表情な声で、シェルは言った。ラザロはかすかに顔をしかめた。人質として送られてきた森エルフの王子には、この学院を出ていくべき期限というものがない。それを知っているラザロは、初対面の幼い主人に同情したようだった。 「やっぱり知らないよね。誰に聞いてもイヤな顔されるんだよ。でも、僕はけっこう、この成りゆきを歓迎してるんだ。こんな時でもないと、母上や姉上たちから離れられないもんね」  真面目な顔で言い、シェルは一瞬沈黙した。しかし、ラザロが戸惑っているのに気付くと、シェルはまたにっこりと笑った。 「ラザロ、僕が学院にいる間、仲良くしてね。もしかしたら、僕が死ぬまでずっとかもしれないけど」 「…精一杯お仕えいたします」 「うん、ありがとう」  答えるのとほとんど同時に、シェルは長身のラザロを抱きしめた。 「で…殿下!?」  予期せぬ出来事に、執事は錯乱して飛び退いた。シェルは両腕を広げたまま、ぽかんとしてラザロを見ている。  「あ、そうか。ごめんね。山エルフはこういうことしないんだよね」  苦笑いして、シェルは頭をかいた。人質に選ばれてからというもの、泣き暮らす母上や姉上たちをよそに、シェルはエルフ諸族の風俗習慣について詳しく勉強してきたのだが、いざ本物の異民族を前にすると、予習はすっかり抜け落ち、いつも通りに振る舞ってしまっていた。これから、他の部族の人質としてやってきた少年たちと友達になる予定だというのに、ちょっとした風習の違いのせいで、いきなり嫌われてしまうのは、いかにもまずい。  「よろしく、ラザロ」  右手を心臓にあてて、シェルはお辞儀をしてみせた。これが山エルフ風のあいさつだと本に書いてあったのだ。しかし、ラザロは予想以上に恐縮して、シェルに何度も礼を返してきた。 「いけません、殿下。目下のものにそのような」 「これ、違うの?」  本には確かに、こうやって挨拶するものだと書いてあったのだが、資料が古かったのかもしれないとシェルは後悔した。それとも、使者のための礼節読本を参考にしたのでは、多少まずかったのかもしれない。  「難しいなあ。まあ、そのうち研究するよ」  少し照れて、シェルは笑った。ラザロは気が気ではない様子で、心なしか、シェルとの距離を多めにとっている。また、いつ抱きつかれるかと思うと、落ちつかないのかもしれない。  「ねえ、ラザロ。他の人質の人たちは、僕より先に到着してるの?」  軽く首をかしげて、シェルは尋ねた。 「はい、皆様すでにご到着です」  ラザロは緊張のためか、少し早口になっていた。 「誰からでもいいから、僕、会ってみたいんだ。どこに行けば会えるか知ってる?」 「そうでございますね…まだ休暇中で講義は始まっておりませんので、皆様ご自由にお過ごしかと存じますが。どこに居られるかまでは…」 「うろうろしてたら、会えるかな?」  思案顔で、シェルは言った。 「学院は広うございますし、学生の方は大勢いらっしゃいますので、偶然お会いするのは難しいかと。それに、迷われるといけません。古くからの学院でございますので、危険な場所もございます。お望みでしたら、各殿下のお部屋に伝言をお届けいたします」 「ああ、それじゃ頼むよ。いつでもいいけど、なるべく早く会いたいって僕が言ってたと伝えてよ」  満足そうに微笑んで、シェルは言った。 「かしこまりました」  一礼して、ラザロは伝言を伝えるため、去ろうとした。  「あ、ちょっと待って、ラザロ」  急に思いついたように、シェルがそれを呼び止める。 「部屋にいるってことも考えられるのかな?」 「は……殿下方がお部屋に居られるかどうかでございますか」 「そうそう。もし、部屋にいるんだったら、僕、ちょっと行って会ってこようかなと思って。伝言しに行っても、いなかったら会えるわけないし、いるんだったら、直接僕が行った方が手間が省けるよ」  自分の思いつきに深く納得して、シェルは何度もうなずいた。しかし、ラザロは困惑している様子だ。 「…お言葉ですが、先方様のご都合がつかない場合も考えられます」 「断られたら帰るからいいよ。3人もいるんだし、誰かひとりくらい会ってくれるさ」  気を悪くすることもなく、シェルは笑った。ほんのちょっと会って話すくらい、誰も嫌がらないだろう。  「さあ、行こうよ、ラザロ。ついでに学院の道案内もしてくれると助かるな」  物言いたげな執事を扉の外に追い出して、シェルは受け取ったばかりのカギを使い、黒檀の扉にカギをかけた。がちゃりと重たい音がして、掛け金がかかる感触がした。シェルはうっとりとその感触を楽しんだ。ここには、うるさい兄上たちや、お節介な姉上たちはいない。口うるさい母上に、日に焼けるだの、転んでケガをするだの、下らないお説教をされることもない。この部屋は、正真正銘、自分一人の場所なのだ。  シェルは、真鍮のカギを、懐に大切にしまい込んだ。 「さて、ラザロ、誰のところから行こうか?」  前もって調べて置いた、3人の少年たちの名前を、シェルは思い返した。山エルフからの人質は、シュレー・ライラル・フォーリュンベルグ。元は神聖一族の出で、山エルフの第一位継承権を持っている。海エルフからの人質は、イルス・フォルデス・マルドゥーク。海エルフを見るのは初めてだ。黒エルフからの人質は、スィグル・レイラス・アンフィバロウ。美貌で名高い一族の出だから、きっと綺麗な顔立ちをしているだろう。みんな共通語が通じるだろうか。もし通じなくても、シェルはエルフ諸族の言語を簡単になら話せるように勉強してきていた。それぞれの部族の言葉で挨拶したら、みんな喜んでくれるだろうか。  おなじ運命を分かち合う少年たちが、自分と友達になってくれるところを想像して、シェルはうっとりしていた。長い戦いに明け暮れてきたエルフ諸族も、四部族同盟によって、再び元通りの平和な時代を迎えることができた。四つの部族を代表して集められた自分たちが友情を結ぶことで、四部族同盟が末永く続くことが確かめられるように思えて、シェルはその気高い理想に燃えていた。そして何より、同じ年頃の友達ができるということが、シェルには嬉しかったのだ。  今まで家族としか接したことのないシェルは、人に嫌われたことがなかった。そもそも、それが間違いの始まりだった。
 
 
 
「シュレー・ライラル・フォーリュンベルグ様のお部屋です」  シェルに与えられた部屋の入口と同じような、黒檀の扉の前で、執事ラザロは説明した。ラザロが、取り付けられていた真鍮の輪で扉を叩くと、部屋の中から山エルフの執事が顔をのぞかせた。  彼らは山エルフの言葉で挨拶をし、会話をしたが、シェルにはその会話の意味がちゃんと聞き取れた。 「アザール、取り次ぎを頼む。マイオス殿下が、ライラル殿下にお会いになりたいとおっしゃっている」  アザールと呼ばれた執事は、難しい顔をした。 「猊下はお休み中だ。あとで申し上げておく。気が向いたらお会いになるだろう」 「マイオス殿下が直々にお出でになっているんだぞ。せめて今お伝えしてくれ」  ラザロは気を悪くしたようで、早口になった。シェルはその言葉を聞き取るため、少し苦労しなければならなかった。 「猊下のお邪魔をするわけにはいかん。森エルフの王子でもだ。神籍のお方に無礼だろう」  アザールは頑強に拒む。シェルは、山エルフのシュレーを「猊下(げいか)」と呼んでいる執事が、少し嫌いになった。  「シュレー・ライラル・フォーリュンベルグは、もう神籍は返上してるって聞いたけど、違うの?」  シェルがきゅうに山エルフの言葉で話したので、二人の執事はぎょっとして振り返った。特に、アザールの驚きぶりは、可哀想になるほどだった。シェルは、ちょっといきなりすぎたかなと反省した。ふつう、エルフ族は他の部族の言葉を学ぶことはなく、部族間での会話は、神殿で使われる共通語で行われる。共通語を話せれば、どこへ行っても困ることはないので、それ以上の言語を頭に詰め込もうとする者は希なのだ。だから、まさかシェルが山エルフの言語を解するとは、執事たちも考えなかったのだろう。  「ごめん、ラザロ。盗み聞きしちゃった」  なんとなく卑怯な事をした気分になり、シェルは白状した。ラザロが物言いたげにぱくぱくと口を動かしてから、やっと言葉をひねり出した。 「殿下は…私達の言葉がおわかりになるのですか」 「勉強してきたんだ。話せた方がいいかと思って。盗み聞きしてやれって思ったわけじゃないんだけど……その、聞こえちゃうから、やっぱり。……あのう…シュレー・ライラルはもう神籍を返上してるから、敬称は"殿下"の方が正しいと思うよ、アザール」  流ちょうな山エルフの言葉で、シェルは忠告した。ラザロが微笑み、アザールは沈黙した。  アザールは何か言おうとしたようだったが、部屋の奥から聞こえたベルの音に、はっとして振り向いたきり、そちらに気を奪われた様子だった。 「猊下がお呼びのようです。少々お待ちください」  不愉快そうな顔のまま、アザールは部屋に引っ込んでしまった。シェルは、ラザロと顔を見合わせ、肩をすくめた。  「"殿下"でいいんだよね、ラザロ。僕の言葉、間違ってる?」  華奢な顎に手をやって、シェルは考え込んだ。ラザロは気味良さそうに微笑んでいる。 「いいえ。間違いはございません。マイオス殿下は山エルフの言葉をよくご存知ですね」  ラザロはどこか、誇らしげだった。シェルは安心して微笑み返した。  シェルがラザロに礼を言おうとしたとき、黒檀の扉が再び開いた。その向こうには、学院の制服を着た、背の高い少年が立っていた。額の中央に、金髪を透かせて赤い聖刻が見えている。少年は、かすかに驚いたような顔をしていた。  「はじめまして」  緊張しながら微笑み、シェルは山エルフの言葉で言った。額の聖刻からして、目の前の少年は山エルフのシュレーに違いなかった。喜んでもらえるといいなと思って、シェルは精一杯正しい発音をするように気をつかった。  しかし、聖刻の少年は困ったような微笑みを見せた。 「恥ずかしい話だが…私は共通語しか話せない」  まったく訛りのない共通語だった。シェルは心底驚いて、目の前の少年を見上げた。山エルフなのに、自分の部族の言葉がまったくわからないとは。 「シュレー・ライラル・フォーリュンベルグだ。よろしく、マイオス。よかったら入ってくれ」  シェルに手をさしのべて、シュレーは言った。まるで神殿の壁画の中にいる、天の使いのようだとシェルは感動した。 「僕…あの、僕でよかったら、山エルフの言葉を教えます!」  言葉を選ぶ余裕もなく、シェルは一息にそれだけ言った。執事たちはギョッとして顔色を失ったが、シュレーは一瞬真顔になり、その後、声をたてて笑った。よほどおかしかったのか、シュレーはしばらくの間、聖刻のある額に手をやり、笑いを圧し殺すのに苦労しているようだった。自分がまずいことを言ったのだと気付いて、シェルはうつむいた。恥ずかしさで顔が火照るのがわかる。友達になってもらうつもりが、馬鹿にされて追い返されてしまうかもしれないと思うと、シェルの気分はどんどん落ち込みはじめた。  「…気遣いありがとう……でも、今日は別の話をしたいな」  まだ笑いの気配の残る声で、シュレーはやっと口を開いた。ラザロがほっとため息をつくのが聞こえた。  扉を大きく開き、シュレーがシェルを中へと促した。シュレーの穏やかそうな緑の目には、シェルを嫌っているような表情は見つからなかった。シェルは不安が晴れた勢いで、ぱっと破顔し、考える間もなくシュレーに抱きついていた。  シェルがしまったと思ったのは、シュレーが短く呻いて息を呑むのを聞いた後だった。